心の平安

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」
    (マタイ5・43~45)

 わたしの学生時代、教会内では「教会派」か「社会派」かという議論がありました。教会が目指すのは、社会を変革し、神様の御心に適った世の中を作るために力を尽くすことであるというのが「社会派」の主張、他方、「教会派」は信仰にとって大切なことは聖書に親しみ、祈りに専念し、心の平安を得ることだという主張です。年代で言うと70年代あたりになります。でも今や、こうした二極化した捉え方は見られなくなりました。とはいえ両者が互いに理解し合っているかどうかは明確でないようにも思われます。
 わたしはどちらかというと、対社会的な活動に関わらず、心の平安を目指すという主張には受け入れ難いものを感じていました。当時は公害問題、ベトナム戦争、大学紛争等々大きな社会的問題が起こっていました。心の平安を重視する人たちは、そういう人間社会を取り巻く状況に目を閉じて、世界から逃避しているように思えたからです。
 しかし、今では「心の平安」ということが、わたしたちクリスチャンが取り組むべき大きな課題なのだと認識を新たにしています。8月15日にNHKが『ふたりの贖罪』という番組を放映しました。真珠湾攻撃の指揮官・淵田美津雄とアメリカの爆撃手ジェイコブ・ディシェイザーの人生を取り扱った内容です。2人とも敵方に対する憎しみ・憎悪の炎を燃やすのですが、戦後、それぞれ伝道者となって憎しみの連鎖を断ち切るための活動に専念します。つまり憎しみを心に抱き続けると言うことは「心の平安」が脅かされることに他なりませんが、この2人の活動は「憎しみ」を克服することを目指しています。「心の平安」というと、単に心が乱されず、悩みやストレスを解消された状態と思われるかも知れませんが、とりわけ古くから宗教者が取り組んできたことが「憎しみ」「恨み」を如何に心の中から取り除くことができるかということでした。このことは、イエス様が求めた「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」を具体化する取り組みであり、非常に困難な課題です。
 しかしおそらく誰でも覚えがあると思いますが、この「憎しみ」「恨み」を取り除き、心の平安を得ることが出来ずにもがいているのではないでしょうか?せいぜい、厭で嫌いな相手との出会いを避けることで、何とか心が乱されるまいと努めていると言ったところではないでしょうか。今、一番嫌いな人、会いたくない人の顔を思い出して下さい。その時に「心の平安」が保てるでしょうか?でもそれを乗り越えて「心の平安」に達することが宗教の役割だと思います。

聖書の歴史

*これは、高松聖ヤコブ教会の月報『オリーヴの若枝』に連載したものです。

第1回

◎はじめに 

 「聖書はクリスチャンの信仰と生活の基礎である」 ごもっともですが、だからと言ってこれに親しみ、よく読んでいるかというと長続きしないのが聖書です。旧約聖書の初めのほうだけ、あるいは福音書のさわりだけで挫折している人がほとんどです。聖書は一週間やそこらで読み切れるほど短くないし、中にはどうでもよいような律法とか人物名が出てくる、カタカナがたくさん羅列されていると、もう見るだけでウンザリ。こうして哀れにも聖書は投げ捨てられる運命を辿るのです。

 わたしも聖書を読もうと心に決めながら、すぐに挫折した一人です。何度目かの挫折の後、「そうだ、聖書の大体のあらすじが分かっていたら、もっと読みやすくなるに違いない」~そう思って初心者向きに書かれたダイジェスト版を開いてみましたが、これがまた興味をそそるものがない。それどころか、「これはちょっと・・・」と首を傾げたくなるものが結構たくさんあるのです。ですからその企ても挫折。なかなかうまくいかないものです。

 でもそうこうしているうちに、気付くとかなりたくさんの本を読んでおり、またおかげでそれまでは断片的にしか頭に入っていなかった知識がつながり始め、さらには世界史の絡みの中で聖書の出来事を眺めることができるようになってくると、俄然、興味が出てくる~というわけですっかり聖書の世界にのめり込んでいくことになりました。

 

 最近になって、このあたりで一度聖書の「ダイジェスト・角瀬版」を書いてみようかと思い立ちました。けれどもそれは単に聖書を要約するのではありません。聖書に書いてあることを、ただ単に順番通りまとめていくと、実はうまくいかないのです。その詳しい話は省略しますが、聖書の内容は必ずしも古い時代に起こったこから順番に並べられていないからなのです。ですから創世記、出エジプト記・・・という風に読み進めば、聖書の歴史がわかるというものではないのです。そのことだけ頭の片隅に置いていただいて、早速聖書の世界に足を踏み入れてみましょう。

◎出発点

 聖書の一番初めには「天の地創造」の神話が記されています。極端に保守的な一部の人は、これをそのまま事実として起こったことと受け止めていますが、おそらく大多数の方はそれには反対されることと思います。 歴史として一番、最初に登場するのはアブラハム、イサク、ヤコブなどのいわゆる族長たちのことです。でも彼らについても、今の段階ではまだ詳しいことはわかっていません。彼らはおそらく、今から約四〇〇〇年くらい前に現れた人々であったと思われます。

 随分、古い話だなあ、と思われるかも知れません。でも世界史の中に置いてみると、それほど古い話でもありません。創世記十二章には、アブラハムがエジプトに行ったことについて書き記しています。もし年代の推定に間違いがなければ、アブラハムはピラミッドを見たことでしょう。すでにエジプトのピラミッドは建立されていたからです。つまり古代エジプトの歴史に比べると、聖書に書かれていることは随分新しいのです。

◎先祖アブラハム

 今ここでは、聖書の歴史を始めるのに、アブラハムから出発しようとしています。今でもイスラエルの人々は、「わたしたちの先祖はアブラハムだ」と言います。でもちょっと考えると妙な言い方だとは思いませんか?アブラハムにはテラという父親がいたことが知られています。またその系図をもっと古い時代までさかのぼることができます。なのになぜ「アブラハムが先祖だ」というのでしょうか?それは創世記十二章一~三節の言葉に基づいています。

「主はアブラハムにいわれた『あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたのなを高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。』」

 これはアブラハムに託された使命を語られたものであり、アブラハムの子孫はそれを受け継いでいるからです。血縁を辿れば、アブラハムの父、祖父、曾祖父・・・と遡りますが、アブラハムを祖先とするのは、この言葉を起点としているからです。ですからアブラハム以前にはで遡らないのです。因みにアブラハムとは「高祖」という意味です。

◎羊飼い(小家畜飼育者)

 アブラハムは、古代シュメール文明の栄えた地、メソポタミアのウルに突然現れます。それまではどこで、何をしていたのか解りません。メソポタミアは北のチグリス川、南のユーフラテス川に挟まれた地域で、ウルはユーフラテス沿いの、河口に近いところにあった町です。 しかし彼らはウルには止まらず、ユーフラテス沿いに北上し、ハランというところに到着しますが、そこで父テラを亡くし、アブラハムが一族の長となります。その後、神様のお告げにより南下してカナン(現在のパレスチナ)に至ります。

 アブラハムとその一族は、遊牧民でした。現在でも、中東では遊牧生活をしているベドウィンと呼ばれる人たちがいます。当時の遊牧民は、大きく二つに分けられます。一つは駱駝を飼育している遊牧民、そしてもう一つは羊や山羊といった小型の家畜を飼育しているグループで、これを小家畜飼育者といいます。アブラハムは後者に属します。

 遊牧民は牧草を求めて年中移動生活をしており、定住地をもちません。従って彼らは必要最低限の生活道具しか持っていません。また移動生活においては、一族のしっかりとした結束も必要です。こうした移動生活の影響と思われる点が聖書には至る所に見出せます。

◎アブラハムの子ども

  「♪アブラハムには七人の子~」という手遊びがあります。それが広く知られているためか、聖書のアブラハムには子どもが七人いた、と思いこんでいる方があるようですが、それは大きな誤りです。七人の子どもの父親は聖書のアブラハムではありません。アブラハムには妻サラがいましたが、サラとの間には子どもができませんでした。跡取りがいなかったのです。そこでサラは自分の召使いハガルとの間に子をもうけるよう促します。その結果生まれたのがイシュマエルでした。これがアラブ人の先祖とされています。

 けれどもその後、神の使いによってサラに子どもができることが告げられ、その予告は現実のものとなります。これがイサクです。そしてその子孫がイスラエル民族です。子どもたちが成長したある日、サラはイサクがイシュマエルにからかわれているところを目撃します。彼女はイサクがいじめられていると思ったのでしょうか、アブラハムにイシュマエルを遠ざけるように願い出ます。アブラハムは悩んだものの、この要求を受け入れ、ハガルとイシュマエルを追放します。

 現在のパレスチナ問題は、パレスチナの土地を巡って、イスラエル人とパレスチナ人(アラブ)が対立しています。イスラエルは、この土地は神様がアブラハムとその子孫に与えてくださった賜物(嗣業と言います)であるから、イスラエルに占有権があると主張します。でもアラブ人はイシュマエルの子孫ですから、「アブラハムとその子孫に与えられた」というなら、彼らにも権利があることになります。

◎子どもの生け贄

 イサクが成長したある時、アブラハムに神様は非常に過酷なお告げをします。それは息子イサクを神様への捧げものとせよ、ということでした。アブラハムが高齢に達して初めて生まれた嫡子を生け贄にしなければならなくなったのです。それに対し、冷静に、淡々とこの酷な命令に従うアブラハムの姿は、教会では伝統的に、いかに困難なことでも神様に従う信仰者の模範とされてきました。そこからレンブラントをはじめ、多くの画家がこの場面を描いています。しかしわたしがイサクの立場であれば、淡々と従うアブラハムを見ると、親とは認められなくなったことでしょう。

 けれども最終的にイサクの生け贄は中止させられます。それは神様がアブラハムの信仰、言い換えれば神様に従おうとする意志が確認できたとして、天使を遣わせて阻止されたからです。そして代わりに近くの藪に角を絡ませている羊を犠牲として捧げました。どうして聖書にこのような過酷な話が記されているのか疑問を持たれる方もあると思います。でも子どもを生け贄として捧げるという風習は、古代世界では至る所で行われていました。パレスチナを旅行すると各地に、おそらくアブラハムが登場する前に使われていた子どもを犠牲に捧げたと言われる聖所(祭壇)が残っています。 しかしそういう風習はやがて無くなります。アブラハムによるイサクの犠牲の話の真偽は不明ですが、少なくともこの物語が子どもの生け贄の取りやめに関係していると見られています。

◎アブラハム以降

 アブラハムの跡取りはイサクでした。イサクはリベカという妻を迎え、エサウとヤコブの双子の兄弟をもうけます。通常は長男が父の後を嗣ぎますが、ヤコブは母親と結託し、策略を使って後継となります。ヤコブは二人の妻と二人の側女の間に十二人の子どもをもうけ、これがイスラエルの十二部族になります。

 やがてパレスチナを大飢饉が襲います。そこで食料を求めてエジプトへ移住することになりました。当時エジプトの主都はナイル川の上流、テル・エル・アマルナというところにありました。ナイルの河口付近、現在の首都カイロ付近は空白地帯だったのです。そこに彼らは定住ました

 

第2回

◎旧約聖書の核

 聖書はたくさんの書物の集合です。旧約聖書は三九巻、新約聖書は二七巻で構成されており、それぞれは執筆された時代も、背景も、その目的も様々です。しかしバラバラに書かれた書物が、一つの聖書としてまとまりを持っているのはそこに全体を貫いているものがあるということです。旧新約聖書全体としては、伝統的に「イエス・キリストを指し示す」ということが言われますが、旧約聖書だけを取り上げたときには、その核心の部分は異なったことが浮き上がってきます。それは「エジプト脱出」の出来事です。旧約聖書を通して読んでみると、神様の救いの歴史として、このエジプト脱出の出来事が繰り返し語られています。年ごとの祭りの際にイスラエルの信仰を表明するものとして語られ、家庭においては子ども達に信仰を継承するために語られ、また民族の運命にとって重大な出来事が起こるたびに、エジプト脱出の歴史が思い起こされ、その歴史に照らして民族の現状が反省されると共に、新しい救いの業が神様によってなされる事を祈り求めたのです。(申命記二六章五~九、ヨシュア記二四章、詩編七八、一〇五、一三五、他)

◎出エジプト

 「エジプト脱出」を聖書では「出エジプト」と表現しています。前回の最後の部分で、イスラエル民族は、パレスチナに発生した飢饉のために、食料を求めてエジプトへ移住したと書きました。そのイスラエルがなぜエジプトを「脱出」しなければならなくなったのでしょう。それは出エジプト記一章八節に「ヨセフ(イスラエル)のことを知らない新しい王が出てエジプトを支配した」とあるように、イスラエル民族をエジプトの地に迎え入れた王朝とは別の、新しい王朝が誕生し、大きく政策を転換したということが背景になっています。

 その新しい王朝というのはエジプト第十九王朝だと推定されています。第十九王朝などと言われても見当もつかないと言われるかもしれませんが、その前の第十八王朝にかのツタンカーメンがいた、と言うと少しは身近に感じられるかもしれませんね。でももう少しエジプトの歴史に詳しい方ですと、ラメセス二世を思い起こされたのではないでしょうか。先日、あるテレビで大学の教授たちを集めて、是非、中学、高校の教科書に掲載して欲しい事は何かを提案してもらうという番組がありました。その中でエジプト研究の第一人者・早稲田大学の吉村作治教授は、このラメセス二世を取り上げるべきと提案していました。古代史において、このラメセス二世は特筆すべき王(ファラオ)だと言う事なのです。

 当時の中東は二大勢力が対立していました。一つがエジプト、もう一つは小アジアにあったヒッタイトという国です。ヒッタイトは人類史上、初めて鉄を作ったと言われています。もっともそれを裏付ける確たる証拠はまだ見つかっていないようです。数年前、日本人研究者がその物証となるかもしれない鉄の塊を発見したと言う事ですが、結論が出たのかどうか、まだ承知していません。どなたかご存知なら教えてください。そのヒッタイトの勢力を押さえたのがラメセス二世です。このファラオによってイスラエル民族は奴隷にされ、強制労働に駆り立てられる事になります。彼らが負わされた仕事は、「ファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスの建設」(一・十一)でした。ついでながら、ヒッタイトの鉄の製造に触れましたが、この時代が文化史の上では青銅器時代から鉄器時代への大きな変化の時であったことも、頭の片隅においてください。

 

◎現人神と奴隷

 以下は聖書には記されていない話です。ラメセス二世が建てさせた建造物の一つに「アブシンベル神殿」があります。この神殿は一九六〇年代、ナイル川上流のアスワンダム建設によって水没することになったため、ユネスコによって現在の場所に移築されました。この神殿は古代エジプトで信仰された神々を祀っていますが、その神殿の中でラメセス二世が太陽神ラーと一体化し、ラメセスが神になるという儀式が行われました。この興味深いセレモニーについてはNHKでも紹介されたことがあります。こうしてラメセス二世は現人神として君臨したのです。つまり絶対的支配権をもつファラオ(王)として、臣下および国民に絶対的服従を強いたことを意味します。

 この現人神の対極に位置するのが奴隷です。「奴隷」という言葉は聖書に頻繁に登場しますから、クリスチャンにとっては聞き慣れた言葉ですが、日本の歴史には登場しません。もっとも奴隷に近い状態に置かれた人はありましたが、所謂「奴隷」とは違っているように思います。

奴隷とは、一言で言うと「人間であるけれども動物(家畜)とされた人」のことです。奴隷は自由を奪われ、彼らに出来る唯一の事は主人の命令に従うことのみです。自由と尊厳が奪われた人間が奴隷です。

現人神にしても奴隷にしても、人間の間に格差を作り出したことの結果です。現人神になる人間がいるから、奴隷にされる人間も生まれるのです。高い身分があるから、低い身分も設けられるのです。

「出エジプト」というのは、エジプトからの脱出とはいえ、地理的にエジプト領内から逃れたと言うのではなく、この支配・被支配の関係の中からの脱出であった、ということが大切な点です。

 

 

 

 

第3回

◎歴史的宗教とは?

 皆さんにはあまり馴染みのない言葉かもしれませんが、キリスト教やユダヤ教など、聖書を基礎としている宗教について「歴史的宗教」と表現されることがあります。その意味をよくご存知のない方の中には、長い歴史を経た宗教、ということのように受け止めれおられる方があるようです。しかしそういう意味ではありません。

 比較のために、日本に古くから伝わる宗教と並べてみると、日本の宗教にしても、聖書ほどでないにせよ、長い時間を経ていますが、これを「歴史的宗教」と言われることはないと思います。あるいはキリスト教以前に成立していた仏教にしても、そのように表現されません。つまり、歴史的宗教というのは、その宗教の時間的な長さに関係しているのではないということです。

 多くの宗教に於いては、自然(現象)の中に、超越者(神)の存在、もしくは意思を見いだし、それを尊重しています。聖書に於いてもそれに類似していると思われる箇所がありますが、それ以上に、歴史上の出来事の中に超越者(神)の意思を見いだしています。

 エジプトでの奴隷状態にあったイスラエル民族の先祖が、エジプトを脱出するという歴史的事実が生起します。その出来事の中に、神の意思を見出すのです。先のアブラハムの出来事にしても、彼の歩みに関わる神様の意思を見出し、これに従おうとする姿勢が聖書の信仰の基礎をなしている、と言うことなのです。

 

◎エジプト脱出の経緯

  奴隷とされたイスラエル民族が、エジプトを脱出した経緯については、聖書以外から窺い知ることは出来ません。古代エジプトの記録にもそのような事件が起こったことは記されていません。従って聖書の記述しか手がかりはありません。

 まず、この脱出劇の立て役者となるのはご存知モーセです。モーセはエジプトの王女に拾われたイスラエル人でした。イスラエル人に男児が生まれたら殺害せよと言う命がファラオから下されており、モーセを何とか助けようとした彼の親は、誰かに拾われることを願いつつ、ナイル川に流したのでした。成長してから、モーセは自分がイスラエル人だと知ることになりますが、同胞のイスラエル人奴隷を殴りつけている監督を殺害してしまいます。これが発覚することを恐れ、モーセは単身逃亡、その逃亡先で家庭をつくり、老年に達します。

 しかしそんなモーセに神様からの召し出し(召命)があり、エジプトの同胞を解放するために派遣されることになります。とはいえ、奴隷は家畜として売買の対象ですから、多額の資金が用意されているなら交渉は難しくないでしょうが、そのような資金は持ち合わせていません。無償で解放せよ、と言うわけです。

 エジプト側は当然拒否します。そうすると様々な「災い」を起こして交渉に当たります。「災い」が発生した際には、ファラオはモーセの要求を受け入れますが、これが治まると約束を反故にします。そういうことが幾たびも続きます。この辺りについては、実は非常に興味深い話もありますので、別のところで触れたいと思います。

 こういうわけで交渉はうまく進みません。最終的に起こされた「災い」が「過越し」と呼ばれるものです。それは神様の働きかけによって、エジプト中のすべての長子~人間も動物も含め、あらゆる長子を撃つ、という災いです。でもそれならば、エジプトにいるイスラエル人にも災いが及ぶことになります。けれどもイスラエル人には、その災いを避ける方法が伝えられ、それに従えば災いはその前を「過ぎ越す」というわけです。こうして災いはエジプト人にのみ及んだのです。

 この災いに衝撃を受けたファラオは、ついにイスラエルの奴隷を解放することになります。まだ続きがありますが、今回はひとまず、ここまでとします。

 

 

 

◎神様の意思

  さて、この歴史上の出来事の中に、イスラエル人は神様の意思を見いだしました。この出来事は、神様の一方的な働きかけによって実現したという理解に立っています。それ故、神様の明確な意思がそこに表れているはずです。

 それを一言で表すと、神様は人間を「奴隷にしてはならない」ということをご自身の意思として示されたということです。これを更に詳しく言うと、人間は奴隷として「拘束」されるのではなく「自由」に、そして身分の格差が奴隷を作り出していることの反省から、人間は「平等」に生きるべきものである、ということです。自由と平等という言葉を聞くと、フランス革命(同胞愛が含まれますが)を思い出しますが、聖書は最初から、人間の自由と平等ということを、神様の意思として受け止めていたのです。そしてパレスチナ帰還後、それを土台とした社会形成を目指しました。「士師の時代」は、これを反映させようとした時代でした。

 

 

 

 

 

第4回

◎エジプト脱出後

  エジプトを脱出したイスラエル民族は海を渡りました。といっても船でこぎ出したのでもなければ、泳いで渡ったのでもありません。海の水が左右に分かれて海の中に道が出来、これを渡ったとされています。これも先に起こった様々な災い同様、なかなか興味深い話ですが、次回、災いや奇跡の話と共に取り上げることにしたいと思います。

 エジプト脱出後、イスラエルが最初に向かったのは「葦の海」(十三・十八)とされています。聖書の付録の地図を見ると、エジプト脱出後のイスラエルが辿ったルートが記されていますが、それによればシナイ半島に入って南下したように書かれています。でも実は葦の海とは具体的にはどこを指すのか、今でも分かっていません。シナイ半島を南下した、というのも、その可能性が無いとは言えませんが、断定することも出来ないのです。十戒を授与されたシナイ山はジェベル・ムーサと名付けられた山だとされていますが、これがいわゆるシナイ山だという確たる証拠はありません。要するにエジプト脱出後のイスラエルが一体どこでどのようにしていたのか、大変興味をそそられるのですが、詳しいことは不明です。

 でもまず考えられることは、解放されたイスラエル人が、「エジプトでの奴隷状態の方が良かった」と不平を言い始めたように、食料と水には困窮したであろうことです。つまり奴隷状態からの解放を、当初、イスラエル人は喜んだのですが、それも束の間、一転してエジプトに戻ろうと考え始めたのです。奴隷に戻れば、少なくとも水と食料の心配はないからです。

 これは、奴隷状態からの解放(救いという言葉に置き換えても良いのですが)と言うことが、安楽な生活に至ったのではなく、逆に非常に厳しい環境に導かれたと言うことです。この「解放から厳しい生活へ」のプロセスは、意味深長だと思います。E・フロムという社会心理学者は『自由からの逃走』という著作の中で、「人間は、主体性が確立していない段階では、自由を求めないで、強力な権威に服従しようとする」と言いました。自由に(自由を)生きるというと、素晴らしいことのように聞こえますが、自由は安楽さを約束するのではなく、むしろ自由に生きることの困難さに直面させ、自由の中で自分がどうすればよいのか、迷わされるのです。ともかく、イスラエル民族は、自由を生きると言うことの難しさを知ることになったのでした。

 けれども、イスラエルの困難に神様は無関心ではなく助けの手を伸ばされ、「マナ」と「ウズラ」を与えたとされています。マナというのは昆虫の分泌物で、夜の冷気によって固まったもので食料になります。またウズラは渡り鳥で、地中海沿岸とアフリカの内陸部を往復しています。長旅を終えたウズラを手づかみにしている古いエジプトの絵画がありますから、この聖書の記述は空想的な作り話ではありません。

 

 

◎十戒の授与

  シナイ半島をさまよったイスラエル民族は、モーセを通して神様から十戒を授かります。「十戒」はチャールトン・ヘストン主演で映画化されており、ご覧になった方も多いと思います。

 十戒は文字通り、十箇条の戒めですが、聖書を読んで、十箇条を数えることが出来るでしょうか。実は教派によって捉え方が違うのです。つまりやや曖昧なのです。それは専門家に任せるとして、この十戒は神様のイスラエル民族に対する意思を示したものとされています。神様は、イスラエル民族にかく在って欲しい、という意思を表明されたということです。

 さてそこで聖書を理解する上で大切なポイントがあります。エジプトでの奴隷状態から解放するために、神様が一方的に関わり、これを実現されたことを「神の愛」という言葉で表現すると、その神の愛に応えるためには、この十戒を遵守することが期待されている、ということなのです。つまり「神の愛」を受けて、それに応答しなければ、愛を享受した者の為すべきことを果たしていない、ということになるのです。

 この点が仏教的な「慈悲」ということと大きく異なる点です。日本語では「愛」を「慈悲」と同義で使うことがありますが、実は異なる意味合いをもっています。つまり「慈悲」には「応答」が期待されていないのです。というよりも「慈悲」とは災いの因子を取り除き、幸いの因子を与えることであり、取り除かれたり受けたりするのは「因子」ですから、その人の主体性には関わりません。

 これに対し「神の愛」は受けた者が自らの意志によって応答(responcibility)することが期待されるのです。この点は「自由」ということとも関係して非常に重要な点です。もし強制力によって応答させられる、つまり十戒を遵守させられるという仕方で応答させられるのであれば、神様は人間が「自由」に生きることを望んでいないことになります。しかし出エジプトで示された神様の意思は、人間が自由であることでした。

 

 

 

付 記(ちょっと余談です)

 今回は前回の続きをお休みして出エジプト記に見られる奇跡物語を考えます。奇跡ということを「自然の法則に反すること、自然には起こりえないことが発生すること」と考えると、聖書中には、たくさんの奇跡が記されています。とりわけ旧約聖書では出エジプト記には不思議な現象が生じたという話が集中しています。こうした奇跡は本当に起こったことなのだろうか、どんな現象だったのだろうかというところに興味が向けられるのではないでしょうか?聖書の研究者の間でもいろいろな見方があります。どんな風に見られているかをまとめて見ました。

 

◎事実か、作り話か?

 モーセのファラオとの奴隷解放交渉に関して見ると、全部で十の奇跡が起きています。

①血の災い、②蛙の災い、③ぶよの災い、④あぶの災い、⑤疫病の災い、⑥はれ物の災い、⑦雹の災い、⑧いなごの災い、⑨暗闇の災い、そして⑩過ぎ越しです。そして更に有名な奇跡として、海が分かれて道が出来、そこを脱出したイスラエル民族が歩いて渡ったということも挙げられます。あるいは遡って、モーセがエジプトに赴く前に、燃える柴の中から神様の声を聞いた場面も思い起こされます。

 こうした物語の中には、にわかには信じられない話もあります。でも聖書の研究者たちは一つ一つ検証しています。でもよく眺めてみると、ここに挙げられていることの多くは起こっても不思議ではありません。病気が流行った、生物が異常発生した、大きな雹が降ってきたということは、現在でも起こります。

 では血の災いや暗闇、そして海が分かれるという現象はどんなことだったのでしょう?「血の災い」はナイル川の水が血に変わった、ということでした。大量の魚も死んだと記されています。想像すると気味の悪い話です。

 これを研究者はどう見ているでしょうか。大方の研究者はこれは地震もしくは地殻変動によって地中の鉄分が溶け出して赤く染まったと考えています。

 では「暗闇の災い」とはどんなことでしょう?今はたくさんの観光客を得ているギリシャのエーゲ海は、海底火山の大爆発によって出来上がりました。時代はエジプト第十八王朝のファラオ・アクエンアテン(イクナトン=ツタンカーメンの父)の時に起こったとされています。大量の火山灰が大気圏を覆ったと推定されています。エジプトでは太陽神のみを崇拝し、他の神々を排除するという宗教改革がこの時に行われていますが、この現象が背景にあると考えると納得できます。つまり「暗闇」というのは、この出来事の記憶が物語として反映されたものではないかと見られているのです。

 「過ぎ越し」というのは、出来事の内容を別にしておくと、遊牧民の間で広く行われてきた習慣を指します。遊牧民は牧草を求めて移動生活を営んでいます。家畜が食べる牧草があるところでキャンプ生活を送り、牧草が少なくなると新たな牧草地を求めて移動するのです。その移動の前夜、旅の安全を祈願して、点との入り口に家畜の血を塗りました。血には魔除けの意味があります。このように「過ぎ越し」という習慣は、イスラエル独自のものではありません。

 しかし出エジプト記に記されているところは、エジプトに居るあらゆる長子~人間も家畜も含め~が死滅するという災いが介入することを防ぐことでした。そしてこの災いに懲りてファラオはイスラエル民族を解放したとされています。これについて、研究者はエジプトに何らかの疫病が発生し、それがエジプト社会に混乱を生じさせたため、奴隷の監視に隙が出来、脱出に成功したのではないか、と見ています。

 こどもの頃に聞いたエジプト脱出の話で一番印象深い場面は、やはり海の水が分かれて海底に道が出来、それをイスラエルが渡ったところです。映画でも非常に非常に迫力溢れる場面でした。でも本当にそんなことが起こったのでしょうか。海が分かれるという現象は、天童よしみの『珍島物語』で知られていますから、不思議で無いかも知れません。

 

 海が割れるのよ

     道ができるのよ

 島と島がつながるの

 こちら珍島から

     あちら芽島里まで

 海の神様 カムサハムニダ

 

 この現象については研究者はどう見ているでしょうか。大きく二つあります。

 一つは津波の前兆現象です。二〇〇四年に起きたスマトラ沖大地震の際に大津波が発生し、その映像が配信されました。その中に津波が襲ってくる前に、海の水が引いていくところを撮影したものがありました。出エジプトも同様の現象だったのではないか、と考えられます。

 もう一つは珍島と同様、潮の干満によるものです。ことにエジプトからパレスチナに至る地中海沿岸の砂州ではこの可能性が高いのです。そして聖書とは別に、その近辺にはエジプトの兵士が海に飲み込まれたという民間伝承が今も伝えられているそうです。

 

 このように聖書に記されている奇跡物語は、誇張や脚色があるかも知れませんが、全く根も葉もない話ではなさそうです。でもあまり合理的に説明されると、ちょっとガッカリしませんか?

 

 

 

 

第5回

◎士師の時代

 エジプト脱出後、荒野を放浪したイスラエルは、ヨルダン川の東、現在のヨルダン王国の方からエリコに入り、カナン(パレスチナ)に分散して定着していきます。エリコ侵入については、黒人霊歌の「ジョシュアの戦い」に歌われている通りです。

 イスラエル民族がカナンで新しい生活を始めた頃を「士師の時代」と言います。広く知られているところでは怪力サムソンなどがその例です。士師という名称はわたしたちに馴染みのないものですが、これはもともと昔の古代中国の役人の役職名です。なぜこのような名称が使われているのか、疑問に思われるかも知れませんが、それは聖書を日本語に翻訳するに当たって漢訳聖書を参考にしたためです。聖書を漢文に翻訳するに当たって中国で使用されていた名詞を用いました。ですから聖書を読んでいると、漢字で書かれていても、私たちには馴染みのない漢字(熟語)にぶつかることがあるのです。

 「士師」は「さばきづかさ」と言われることもありますが、裁判人(官)ではありません。時には裁判を行うこともあったようですが、それを専門的に行う人ではありません。

 出エジプトの出来事を思い出して頂きたいのですが、エジプト脱出を経験したイスラエル民族は「人間は奴隷になってはならない」ということを神様の意思として受けとめました。それは具体的には身分の格差を作らないことによって実現しようとしたのです。

 とはいえ、人間社会に於いてはさまざまなトラブルが発生しますから、解決のためには仲介・調停に携わる人が必要です。あるいは外敵が侵入した際、中心となるリーダー無しには一致団結してこれを退けることができません。そこで平常時に於いては全員が平民として、同一の身分にありましたが、有事の際には一時的なリーダーを立てて問題の解決に当たるという方法を採りました。この一時的なリーダーが士師です。そして問題が解決すると元の平民に戻りました。

 こうしたやり方は一定程度成功しました。ですから聖書ではしばしば士師の時代が理想的な社会であったと見ています。

 けれどもそれは長く続きませんでした。やがて士師というやり方では対応できない事態が起こったのです。それがペリシテ人の侵入です。

 

◎定住生活に伴う変化

 ペリシテについては後で扱うことにして、イスラエル民族の定住生活に伴う変化について押さえておきましょう。このことについて聖書には詳しくは記されていません。しかしイスラエル史に於いては重要な変化です。それはイスラエル民族が定住生活、そして農業を営むようになったことです。もともとイスラエルの先祖は遊牧民でしたから移動生活をしていました。家畜を飼育することには長けていたでしょうが、農作物を育てることは経験がありません。おそらく、イスラエルは既にカナンに定着し、農業を営んでいた先住民から学んだことでしょう。でもこのことは現代のようなやり方とは全く異なっています。現代ならば、農業技術を科学的に伝えるでしょうが、当時は農作物の栽培と宗教は分かちがたく結びついていたと思われます。種まきの神事が行われ、栽培のために必要な祈願祭が挙行される、また収穫感謝の祭りなどが行われたことでしょう。

 イスラエル民族が先住民のカナン人から農業を拾得するに当たっては、単に技術だけを学んだのでなく、カナン人が信仰する神々をも受け入れたのです。その神々がバアル神です。

 バアルはカナンのみならず、中東世界一帯で広く信じ受け入れられた神でした。そのバアルは各地域で古くから信仰されていた神々と一体化され、八百万の神々となっていました。例えば聖書には「ベルゼブル」という名称が見られますが、これは「バアル・ゼブブ」といわれていたもので、「バアル」と「ゼブブ(蝿)」が結びついたものです。

 でもバアルの宗教にはある共通点もありました。それは身分の上下、貧富の差、そしてその延長線上にある奴隷の存在を容認していました。従ってバアルの教えはイスラエル民族の信仰(以下、これをイスラエル宗教と表します。ユダヤ教の成立はバビロン捕囚の終わり頃です。)とは真っ向から対立するものです。おそらく多くの民衆は、イスラエル民族が神様の意思として受けとめたこととバアル宗教の違いには無頓着で、バアルに傾倒する者がたくさんいたのでしょう。

 こうした事態に、バアル神を離れ、エジプトからイスラエル民族を解放した神に立ち返ることを勧告したのが預言者たちです。特にバアルとの対決で大きな役割を果たしたのが預言者エリヤでした。

 イスラエル宗教の指導者たちは、こうした経緯から、農耕信仰とこれに伴う習慣を大変警戒しました。神殿の建立、金の子牛の像などがそれです。そして更には後の王位継承(ダビデの後継者争い)にも絡んでくることになります。

 

 

 

第6回

◎ペリシテの侵入

  聖書で言うところの「カナン」の地は、現在では「パレスチナ」と言われますが、その範囲はほぼ同じです。そのパレスチナという名称はローマ帝国に付けられたものですが、それは「ペリシテの土地」を意味します。そのペリシテがカナンに侵入してきます。

 このペリシテはイスラエル人にとって大きな脅威でした。ペリシテについては現在の私たちは聖書で見る程度で、その他の影響については殆ど知られていませんが、古代の地中海沿岸の国々を震え上がらせた存在でした。

 ペリシテは、今のイタリア半島当たりから地中海沿岸に広がっていきました。ペリシテ出現以前の地中海世界では、小アジアの国・ヒッタイトと北アフリカのエジプトが覇権を競っており、他の小国はそのいずれかを宗主国としていました。ところがペリシテはヒッタイトを攻め滅ぼし、エジプトにも多大な被害をもたらせるほどの力を持っていたのです。(エジプトではペリシテを「海の民」と呼んでいます)そのペリシテの一部がカナンの海岸線に侵入してきたのですから、小国イスラエルにとっては、その存立を揺るがす脅威だったことは言うまでもありません。

 

◎士師から王制へ

  このペリシテに対して如何に備えるか~イスラエルには緊急かつ重大な課題が持ち上がったのでした。士師の時代は、いわゆるイスラエルの十二部族が、各部族ごとに分散して居住区を割り当てられ、十二部族全体を統括し、指揮する権威者は存在しませんでした。前回見た通り、士師という在り方を保持し続けることこそが大切だとされたからです。

 ところがそのような在り方には一つの問題点がありました。例えば女預言者デボラが士師の役を受けた時、カナンの北部に外敵が侵入しますが、これに立ち向かうためデボラは全イスラエルに協力を要請しました。しかし近隣の部族は応援しましたが、他の部族は参戦することがありませんでした。デボラの要請に応じるか否かは、あくまで各部族の自発性に委ねられていたのです。

 こうしたことが是認される体制だと、強力なペリシテが侵入してきた際、これを退けることは出来ません。それどころか分断された部族が一つ一つ打ち破られると、遂にはイスラエル全体が滅亡することも予想されます。

 そこで新たな体制に移行させる必要が生じました。すなわち王制を敷き、強力な権威の元に全体を統括し指揮しなければなりません。これを指導したのが預言者サムエルです。

 

◎初代王サウル

 こうしてイスラエルに最初の王が誕生することになります。ベニヤミン族のサウルです。彼は美しい若者で、他の者よりも肩から上の分だけ背が高かったと記されています。

 王制が敷かれると言うことは、ただ単に一人の人物に権威が集中したと言うだけではありません。国の体制そのものが大きく変わったということです。

 

 サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」(サムエル上8・10以下)

 

  サムエルは本心では王制を敷くことに反対だったと思われます。王制に移行すると、こういうことになるぞ、ということを示すために上記のように語ります。しかし民衆は王制を導入することを強力に求めたため、サムエルはこれに応じざるを得なくなったとされています。

 王は時として家臣に危険を承知の上で最前線で戦うことを命令します。家臣がそれに背けば罰則を加えなければなりません。しかし危険を顧みず、勇敢に戦い、手柄を立てたなら、それに見合う褒美を取らさなければなりません。また王が自由に使える資金がなければ外敵に備えることも不可能です。従って王制により、民は多額の納税義務を負うことになり、王の命令には絶対的な服従を求められることになります。税を払えない者は、自ら奴隷として身を売りました。こうしてイスラエルに大きく変貌しました。

 サウルは王となりましたが、イスラエル全体には王制が徹底されていませんでした。王制について、十分に理解されていなかったのです。それに王が誕生する以前に指導的立場にあった宗教権威者としてのサムエルとの関係もサウルの立場を難しくしていました。

 

 

 

第7回

◎ダビデの登場

 ある時イスラエルの初代王・サウルは、パレスチナの遊牧民の一つであったアマレク人との戦いに臨みます。戦いに先立ってサウルは預言者サムエルから所謂「聖絶」(敵を皆殺しにすること)を指示されます。それが神様の意思として示されたのです。

 しかしサウルはこれに従いませんでした。そこで神様はサウルを見限り、新しい王を立てようとされます。そこで選ばれたのがベツレヘムのエッサイの子・ダビデでした。そしてサムエルはダビデに油を注ぎます。とはいえダビデは直ちにイスラエルの王とされたのではありませんでした。

 サウルは晩年、「悪霊」にさいなまれます。それは具体的にはどのような現象を引き起こしたのか判りませんが、精神錯乱のように思われます。そこで側近は音楽を聴かせることで落ち着かせようとしたのでした。ダビデは勇猛果敢な青年であると同時に、竪琴の演奏に秀でた才能を発揮していました。ダビデに竪琴を演奏させてサウルの症状を緩和させようと言うわけです。こうしてダビデはサウルの側近くで仕えることになります。

 ペリシテとの戦いに、サウルとダビデは出陣し、多大な戦果を挙げて凱旋してきます。その時に彼らを迎えた女たちは、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌います。今も昔も人と比較されるのは厭なものです。この歌を聞いてサウルはダビデに対し劣等感を抱くようになり、これが高じてダビデを殺そうと企みます。これはサウル自身の破滅を招くことになりました。サウルは自らの立場を忘れ、彼の頭にはダビデを陥れることしかありません。徐々に家来の信頼を失い、失意の内に戦死することになります。

 他方ダビデはサウルの刃を避けるため、ペリシテの王アキシの元に逃亡します。しかしペリシテの側についたとはいえ、イスラエルには刃を向けなかったとされ、アキシには偽りの報告をして信用させました。

 

◎ダビデがの王位

 サウルの死後、ダビデが王位を継承しますが、いきなり全イスラエルの王として即位したのではありません。ダビデはまずヘブロンでユダの王になります。他方、サウル軍の長であったアブネルはサウルの息子イシュ・ボシェトを擁立します。つまりイスラエルは事実上二つに分裂していました。ダビデは極力両者の対立を回避し、一体化を計るよう努めました。

 けれども北部族はサウル後の王を立てることが出来ず、ヘブロンのダビデのもとに来て北部族の王を兼任することになったのです。

 南ユダ地方の支配だけを考えるなら拠点はヘブロンで構わなかったでしょうが、カナン全土を支配するためには、新たな拠点が必要と考えました。そこで目をつけたのが、当時エブス人の町であったエルサレムです。当時はエブスと呼ばれていました。ダビデはこれを陥れ、そこに新たな都を建設したのです。これは「下の町」と呼ばれている部分で、現在はイスラム教のエレアクサ寺院の南に位置します。南北に細長い場所です。そしてそこに十戒を納めた「神の箱」を運び入れ、全イスラエルの中心地としました。前に触れたように、この「神の箱」は「椅子」と言うべきものであって、目に見えない神様がその上に座しておられると信じられていました。こうしてエルサレムは「神の都」とされたのです。

 

◎ダビデ契約

 ダビデの治世に於いて、重要な出来事の一つに「ナタンの預言」があります。ナタンはダビデがウリヤの妻バド・シェバを奪った時に、ダビデを激しく非難した預言者です。その預言はサムエル記下七章に記されています。

 

「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」(7・11~13)

 

 つまりダビデとその子孫が王国を継ぐ者となる~ダビデの子孫のみが、正当な王位継承権をもつ、と言うことです。

 ダビデは第一代王サウルの息子ではありません。しかしダビデ以降はダビデの子孫でなくてはならないのです。イエス様がダビデの子孫と言われるのは、このことが背景となっているからです。

 このナタンの預言には、これに先だって、「神殿」に関する部分があります。内容はダビデが神殿を建立しようとしたけれども、神様はそれを臨まない、と言うことです。これはソロモンの業績の中で取り上げますので頭に入れておいてください。

 

 

 

第8回

◎ダビデ時代の世界

 ダビデの治世は、ペリシテとの戦いや息子アブサロムが乱を起こすという事件はあったものの、おおむね安定した平和な時代でした。それ故に、交易は盛んになり、民衆は活気を得たことにより、ダビデは優れた支配者、王と見られるようになりました。後代の人々は、ダビデを理想的な支配者と見るようになります。

 しかし、オリエント世界を広く見渡してみると、実はメソポタミアの勢力が、さらなる拡大を目指して準備を始めている時期で、そのためにパレスチナに侵入することがなかったに過ぎなかったのです。

 

◎メソポタミアとオリエント世界の状況

 メソポタミアという名所は「二つの川の間」という意味で(異説もありますが)、具体的にはチグリス川、ユーフラテス川に挟まれた地域を指します。湾岸戦争のお陰でその辺りの地理はわたしたちの頭に刷り込まれているのではないでしょうか。「はて?」と言う方も、今のイラクだと言えばお分かりになるでしょう。

 このメソポタミアは最も古い文明が誕生した地域で、人類が最初に文字を使用したのもこの地域でした。人類最古の法律とされるハムラビ法典も、聖書の世界にも大きな影響を与えたギルガメッシュ叙事詩もメソポタミアで生み出されたものです。バベルの塔はこの地域に見られるジックラットを暗示しているともいわれます。

 聖書に関係するところだけを取り上げますと、まずチグリス川流域の町・ニネベを首都とするアッシリアの勢力、そしてこれを凌いだのがユーフラテス川流域のバビロンを首都とするバビロニア帝国に注目しなければなりません。この二つの大帝国はその勢力拡張を進めるのですが、パレスチナはその際の通り道になります。つまり両大帝国はエジプトへ進出を企てるのですが、その際、必ずパレスチナを通過しなければならないのです。

 聖書に於いては「神に選ばれた民」とされるイスラエル、

そして「神の与えた約束の地」パレスチナという形容がなされますが、大国から見れば取るに足らない弱小国に過ぎません。如何にダビデが優れていたか、と聖書に記述されていても、世界史から見ればその重要度は極めて低いと言って良いでしょう。

 ついでながら、更に広く世界史の動きを押さえておきましょう。わたしたちが通常、中学、高校で勉強する世界史ではアッシリアやバビロニア帝国はほとんど取り上げられませんが、その後の動向辺りから勉強されていると思います。

 バビロニア帝国の勢力が支配している時代は、旧約聖書の時代の、ほぼ終わりの頃に当たります。ダビデの時代からはおよそ六百年後になります。その頃になると、バビロニアの力は衰え、代わって台頭してくるのがペルシャ(イラン)です。いわゆる「アケメネス朝ペルシャ」です。聖書では、ペルシャを「解放者」として賞賛していますが、それはペルシャによって「バビロン捕囚」が終わったからです。ペルシャはエジプト、小アジアも支配します。しかしその支配政策はそれまでの世界史に例のないものでした。これについては後に詳しく説明します。

 

 ある時イスラエルの初代王・サウルは、パレスチナの遊牧民の一つであったアマレク人との戦いに臨みます。戦いに先立ってサウルは預言者サムエルから所謂「聖絶」(敵を皆殺しにすること)を指示されます。それが神様の意思として示されたのです。

 しかしサウルはこれに従いませんでした。そこで神様はサウルを見限り、新しい王を立てようとされます。そこで選ばれたのがベツレヘムのエッサイの子・ダビデでした。そしてサムエルはダビデに油を注ぎます。とはいえダビデは直ちにイスラエルの王とされたのではありませんでした。

 サウルは晩年、「悪霊」にさいなまれます。それは具体的にはどのような現象を引き起こしたのか判りませんが、精神錯乱のように思われます。そこで側近は音楽を聴かせることで落ち着かせようとしたのでした。ダビデは勇猛果敢な青年であると同時に、竪琴の演奏に秀でた才能を発揮していました。ダビデに竪琴を演奏させてサウルの症状を緩和させようと言うわけです。こうしてダビデはサウルの側近くで仕えることになります。

 ペリシテとの戦いに、サウルとダビデは出陣し、多大な戦果を挙げて凱旋してきます。その時に彼らを迎えた女たちは、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌います。今も昔も人と比較されるのは厭なものです。この歌を聞いてサウルはダビデに対し劣等感を抱くようになり、これが高じてダビデを殺そうと企みます。これはサウル自身の破滅を招くことになりました。サウルは自らの立場を忘れ、彼の頭にはダビデを陥れることしかありません。徐々に家来の信頼を失い、失意の内に戦死することになります。

 他方ダビデはサウルの刃を避けるため、ペリシテの王アキシの元に逃亡します。しかしペリシテの側についたとはいえ、イスラエルには刃を向けなかったとされ、アキシには偽りの報告をして信用させました。

 

 

 

第9回

◎ダビデの王位継承問題

  ダビデには多くの息子がいたことが知られています。歴代誌上三章に記されている通りです。

 

 「ヘブロンで生まれたダビデの子は次のとおりである。長子はイズレエル人アヒノアムによるアムノン。次男はカルメル人アビガイルによるダニエル。三男はゲシュルの王タルマイの娘マアカの子アブシャロム。四男はハギテの子アドニヤ。五男はアビタルによるシェファテヤ。六男は彼の妻エグラによるイテレアム。六人の子がヘブロンで彼に生まれた。ダビデはそこで七年六か月治め、エルサレムで三十三年治めた。エルサレムで彼に生まれた者は次のとおりである。シムア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアミエルの娘バテ・シュアによる子である。イブハル、エリシャマ、エリフェレテ、ノガハ、ネフェグ、ヤフィア、エリシャマ、エルヤダ、エリフェレテの九人。みなダビデの子であるが、別にそばめたちの子もあり、タマルは彼らの姉妹であった。」

 

 ここには前回触れたアブサロム*は含まれていません。彼は既に戦死していたからです。またこのリストの中で「おや?」と思われたことでしょうが、ソロモンの母が「アミエルの娘バテ・シュア」となっており、サムエル記に記されている「バト・シェバ」ではないことです。これはソロモンの出生に関して、マイナス要因と見られるダビデの不道徳な行為を改変する意図で変更されたものと見られています。

 さて、ダビデが年老い、後継者問題が浮かび上がってきました。その際、王座を巡って争ったのがアドニヤとソロモンです。その経緯については列王記上に記されていますが、しかしそれを額面通りに受け取ることはできないでしょう。この記述によれば、ダビデはソロモンを後継と心に決めていた、しかしアドニヤはダビデの承認を得ないまま、王を僭称した、これに対してダビデはソロモンを王位につかせるよう側近に指示し、ソロモンが王位につくことになった、そしてアドニヤを殺害した、ということになります。

 しかしことがこの記述通りであったと見るのは早計です。というのは、聖書とは言え、旧約聖書の歴史は、イスラエルの体制側に都合の良いように書かれるものであって、支配者にとって都合の悪いことは記述されなかったり、曲げて記載されたりするものだからです。

 またこの王位継承問題に絡んで伝えられた話があります。創世記の四章にある、有名な「カインとアベル」の物語です。ご承知の通り、この物語は兄弟殺しに触れていますが、この物語は、ソロモンによるアドニヤ殺しを揶揄した人々によって創作され、伝えられたものです。つまり、この王位継承について、腹立たしく思っていた人々がいたことを伺わせます。

 

 

◎二つの勢力

 ダビデ後の王位継承問題を、単にソロモン対アドニヤという、個人対個人の争いという風に見ると、その実態を見誤ることになります。そもそも王位継承問題に於いて、個人的な権勢欲が根っこにある、などという見方をしているとすれば非常に浅はかと言うべきです。つまり背後には、この二人をそれぞれに擁立していこうとする勢力が潜んでいて、これら争っているのです。ではそれはどういう勢力であったのでしょう。

 旧約聖書を通して読んでいくと判ることですが、ダビデの時代には、それまでのイスラエルの在り方から方針転換しようとしている意図が見えてきます。例えば神殿の建立です。神殿というのは「神の住居」ですが、これはダビデ以前のイスラエルには見られないものでした。ダビデの時にこれに着手しようとしますが、うまく行かなかった~どうやら反対する勢力が強かったことを伺わせます。神殿は異動生活を基本的な生活形態としている遊牧民には見られません。それは農耕民族のなかで生まれたものです。

 そういう神殿をなぜ建立しようとしたのか?それは信仰的な動機だなどと見ると、大間違いで、実は政治的な意図なのです。従ってダビデの時代にそれに反対する勢力があったということは、ダビデが進めようとしている政策転換に異議を唱える者たちがいたことを示していますし、ダビデが神殿建立を諦めたと言うことは、その勢力が非常に強かったことを意味してます。

 ではダビデが目論んだ政策転換とはどういうことかというと、王の権威を揺るぎのないものにすることでした。前に見たことを思い起こして頂きたいのですが、出エジプト以来、イスラエルは特定の人物に権威を集中させることを嫌ってきました。身分の上下を作らない在り方を重視してきたのです。しかしそれにはデメリットがありました。強力な外敵にたいして防備を固めることが難しい、ということです。そこでイスラエル古来の、出エジプトの精神に堅く立とうとする勢力と、他方、王に権威を集中し、組織的な体制造りを目指そうとする勢力です。前者はアドニヤを、後者はソロモンを擁立して争うことになりました。そしてソロモンがダビデの後継となったのでした。

 

 

 

 

第10回

◎ソロモンの支配

  ソロモンの支配を一言で表せば、「富国強兵」です。そしてそれを押し進めるために、王の「絶対支配」を確率しました。

 まず王の絶対支配ということに触れましょう。これはサウル、ダビデの時代と比べてみるとよく分かります。サウルが登場する以前、イスラエルを指導していたのは預言者サムエルでした。つまりサムエルは宗教権威者です。王制が確立する以前は、この宗教権威者がイスラエルに於ける最高権威でした。ところが王制が敷かれたことによって世俗の権威者が登場することになります。サムエルとサウルの物語を思い起こして頂ければ分かりますが、王とはいえ、サウルはサムエルに頭が上がりません。つまり、宗教権威者が世俗の権威者より強い立場にあったのです。

 次の代になると、ダビデ王が世俗の権威者、そして宗教権威者として預言者ナタンが登場します。ウリヤ、バテシシバの事件に対し、ナタンはダビデに激しい非難を浴びせます。これに対してダビデは言い返すことができません。ダビデの時代も、世俗の権威者と宗教権威者が共存していることが分かります。

 ところがソロモンの時代になると、サムエルやナタンに匹敵する宗教権威者は姿を消しています。それどころかソロモン自身が祭儀を司っています。かつて戦の前に、預言者サムエルの到着が遅れ、敵を前にしたサウルが待ちきれなくて祭儀を行うという越権行為を犯した際、サムエルによってサウルが激しく非難されたことを思い起こすと、ソロモンの時代には、もはや王に身を挺して諫言する宗教権威者がいなくなっていたことは、ソロモン自身が宗教権威をも獲得したことを意味しています。こうしてソロモンは二つの権威を手中に収め、もはや彼に対する抵抗勢力はなくなり、絶対的な権威をもって支配したのです。 

 

 

◎ソロモンの政治的偏向

  ダビデが王となった経緯を思い起こしてください。ダビデはサウル亡き後、イスラエル十二部族全体を治める王に即位したのではありませんでした。ダビデは当初、ヘブロンで南二部族の王となります。北十部族はサウル後の王を建てようとしましたが、選出できず、やむなくヘブロンのダビデのもとに来て、北部族も治めてくれるよう求めたのでした。

 イスラエルの十二部族は、聖書ではエジプトを共に脱出    を経験し、カナンの地で土地を得て、分散して居住することになったとされていますが、ペリシテ侵入の経緯に見られるように、強くしっかりした繋がりはもっていません。これがどのような繋がりであったのかは研究者にも詳しくは分かっていません。同一の神様を信仰し、その聖所・祭壇を一月交代で管理するという約束・取り決めを交わしていたと言う程度の繋がりしか分かっていないのです。少なくとも同族意識は希薄ですし、民族としての自覚は無きに等しかったと思われます。ついでながら、いわゆる「選民」という意識など、このころには全くありません。

 こうした関係の中でソロモンがダビデの後継となりますが、彼は「富国強兵」体制を確立するために、北部族をまるで南部族の植民地のように扱いました。具体的には北部族に対し重税と徴用、強制労働を課しました。南部族に対しても同等の義務を課すのであればまだしも、北部族と南部族に差を設けたのですから、北部族が納得するわけがありません。北部族の不満、ソロモンに対する恨みは蓄積しました。重い税を払えないものは家族を、そして自らを奴隷として身売りする者すら現れます。「人間を奴隷にしない」という出エジプトの精神は完全に蔑ろにされたのです。けれども、ソロモンは北部族の不満を力で抑え続けました。「ソロモンの栄華」という言葉がありますが、それは北部族を押さえつけることによって実現したものでした。

 

 前回も触れましたが、聖書の中に書かれている記述、ことに歴史については、一体、だれが、どういう立場で執筆したのか、と言うことを押さえておかなければなりません。旧約聖書を読むと、ソロモンを非難する言葉や記述はあまり無いではないか、ソロモンに対する批判的な見方は非常にうがったものではないかと受けとめる方もあるかも知れません。

 しかし、歴史というのは体制側に都合の良いように書かれるものだ、ということを念頭に置いて眺めようとしないと、事実関係を大きく見誤ることになります。このことは旧約聖書のみならず、新約聖書を読む場合にも注意すべき点です。

 

 

 

第11回

◎南北分裂

 ソロモンの偏向政治に対して北部族が不満を募らせたことは当然のことでしたが、しかしソロモンの強力な支配体制に為すすべもありませんでした。ソロモンが没し、政治体制が移行する時期を待って、北部族は統一王国から離反し、独立することに成功します。こうして統一イスラエルは南北に分裂することになりました。この時の北王国をイスラエル、南王国をユダと言います。これが具体的にはどの範囲を指しているかについては聖書地図を参照してください。どの聖書にも、後ろに付録として収録されている地図があります。新共同訳聖書では5番目の地図になります。大まかに言いますと、北のキネレト湖(ガリラヤ湖)から南は塩の海の北端そしてそこから、ほぼまっすぐ西に境界があります。そこまでが北イスラエル王国の領土です。地中海沿岸の南方はペリシテ人の土地になっていましたから、これは北イスラエルにも南ユダ王国にも属しません。南ユダ王国は東は塩の海(死海)、西はペリシテの境界まで、北のラマ付近から南部がユダ王国の領土です。

 この地図を見る際の一つのポイントは、エルサレムがどちらに属していたか、ということです。エルサレムは神殿(神の住居)が建立された所であり、神がおられる都でした。そしてダビデ契約によるダビデの末裔が王位を継承している王宮もありました。このエルサレムの存在は、分裂後の南北王国それぞれの歴史に深く関わってくることになります。

 

◎北イスラエル王国

 北イスラエル王国の歴史を眺めると、エルサレムの存在意義が明らかになってきます。国は分裂したものの、イスラエル王国の民が依って立っていた信仰まで変わってしまったのではありません。そうすると、信仰上の拠り所であったエルサレムが南ユダ王国にあることは、民衆の心は南王国に向けられていることになります。

 しかしこのことは国民を束ねる為政者から見ると非常に不都合でした。そこで北王国内にエルサレムに代わる神殿を建立することになります。そこで北王国内に二カ所、すなわちダンとベテルに神殿が建立されます。(列王記上十二章)そしてそこに「金の子牛」を安置したのです。

 話が飛ぶように思われるかも知れませんが、エジプト脱出後のイスラエルを思い起こしてください。モーセがシナイ山で十戒を授けられていた時、麓にいたイスラエルの民は「金の子牛」を造り、これを神として崇拝したという事件がありました。(出エジプト三十二章)この話は、実はこの北王国に於いて金の子牛を鋳造し、神殿に安置した出来事を背景に生まれた物語です。北王国の神殿建立及び金の子牛の安置に批判的な立場の人が書いた物語だとされています。

 エルサレムの神殿には、その最奥部に一対のケルビムが安置されていたことは以前に触れた通りです。北王国ではそのケルビムに匹敵するものとして「金の子牛」を造ったのです。ケルビムと同じく、牛も神を背負う動物とされていました。つまり、金の子牛は、それ自体が信仰の対象なのではなく、その牛にまたがる、見えない神様を礼拝するための像でした。

 けれども「牛」はカナンでは「バアル神」の象徴として用いられた動物です。そしてもともとヤハウェとは何ら関係がありません。民衆から見ると、金の子牛を見てもヤハウェには繋がらないのです。むしろバアルを連想させるのです。これは民衆を誤った道へ誘導しかねないとの懸念を抱かせるものでした。

 またもう一つの大きな問題はダビデ契約です。(二月号参照)つまり王位の正当性に関連するのです。それは政治的な領域の話と思われるかも知れませんが、この時代には極めて宗教的な問題でした。イスラエルの王位はダビデの子孫でなければならないというのは、人間が決めたことではなく、神様の意志によるものだからです。

 北イスラエルは南ユダから分離独立したものの、では北イスラエルの王はだれが着くのかが問題です。ソロモンの圧政時、抵抗運動を指導し、エジプトへ亡命していたヤラベアムが北イスラエル王国の初代王になります。しかし、ダビデ契約を重視し、エルサレム神殿の正当性を認めているものからすれば、北イスラエルの王位の問題や宗教生活の在り方は見過ごすことはできない事態でした。このことは北王国指導者と、預言者とレビ人を中心とする宗教指導者との間に溝ができたことを意味します。更に王位の正当性を主張できないことは、力のあるものが王座を窺い、非常に不安定な国家体制を招いたのです。また更にはその国家体制を強化するために、イスラエルは隣国との同盟を計りました。すなわちフェニキアとの同盟です。

 当時のフェニキアは地中海貿易で財を蓄えた強力な国です。その力の大きさを示しているのが、後にローマと対決したカルタゴもフェニキアが造ったという事実です。

 当時の同盟とは、政略結婚によるものでした。しかしフェニキアはバアル宗教が栄えた国。その国の王女イゼベルを妃に迎えたのがオムリ王朝のアハブでした。そしてこれに抵抗すべく登場するのが預言者エリヤです。(続く)

 

 

 

 

第12回

◎聖書を書いた人々

 今回は聖書に書かれている内容から少しはずれます。とは言っても聖書の歴史とは別なことを扱おうというのではありません。表面上は隠れているけれども、聖書の歴史に関わりのある人々に焦点を当ててみようと言うわけです。 聖書は初めから現在のわたしたちが読んでいるような形に仕上がったものではありません。最も初期の段階では口伝え(口伝承)で伝えられていたでしょう。次の段階になると、それが文字化された断片になります。さらにそれらが組み合わされ、形も整えられ、編集されて大きなまとまりを持つようになります。そして最終的に一つの書物として編纂されていきます。ごく簡単に言えばこのようなプロセスを経て聖書は出来上がりました。

 そうすると、それぞれの段階で作業に当たり、取り組んだ人々がいたはずで、その人たちの考え方(信仰)が少なからず反映していることになります。そんなことを聞いても、まるで雲を掴むような話と思われるでしょうから、一つ具体的な例を取り上げてみましょう。

 

 

◎創造神話

 先ず聖書の一番最初の頁を開いてください。そして創世記一~二章に目を通してください。そうすると直ぐにお気づきになったと思いますが、天地創造の話が二つ記されています。一章では天地創造の出来事が、日を追って順序正しく記述されています。しかし二章の記事は全く異なっています。人間の創造について見ると、一章では一番最後に造られたことになっているのに対し、二章では最初に造られたように書かれています。それよりもここで注目して頂きたいのは、一章では神様を「」(ヘブライ語ではエロヒーム)と記述しているのに対し、二章では「主なる神」(ヤハウェ)と記しています。

 こうした違いを分析していくと、神様をエロヒームと記述している箇所と、ヤハウェと表記している箇所では記述の形式も内容も異なっており、それぞれの特徴が見えてきます。

 こういう分析の結果、幾つかの塊に分類できることが分かってきましたが、その塊のことを資料と言います。そしてその資料の記述・編纂に当たった人々がいて、それらの人々は古代イスラエルの歴史の中で、どんな立場の人だったか、どんな影響を与えた人々だったか等々も分かってきており、そこに焦点を当てようと言うわけです。

  さて、旧約聖書を分析した結果、次の点が明らかになりました。①神様の名前をヤハウェと表している文書と、エロヒームと表記している部分に分けられること、②神様をエロヒームとしている文書は二つに分けられること、③これらの資料は創世記からヨシュア記あたりまで貫かれていること、そして④申命記は紀元前六二二年のヨシヤ王の宗教改革の際に発見された「律法の書」(原申命記という。歴代下三四・十五)と推定され、これらのことから旧約聖書の最初の五冊(これをモーセ五書といい、律法とはこれを指している。)もしくはヨシュア記を含めた六冊(六書)は、上記の四つの主要な資料で成り立っていると推定されています。

 

◎資料と担い手

 これらの資料を書かれた年代順に並べると、最も古いのが神名をヤハウェとする「ヤハウェ資料(Jと表記)」そしてこれを書いた人たちをヤーウィストと呼びます。次は神名をエロヒームとする「エロヒーム資料(Eと表記)」でこれを書いた人たちをエロヒストと言います。また現在の申命記の中心部を構成する資料を「申命記資料(Dと表記)」、そして神名をエロヒームとするもう一つの資料は「祭司資料(Pと表記)」と呼ばれます。

 これらの資料の中で、最も年代が古いのがヤハウェ資料です。この資料の担い手は王国が成立した頃、つまりダビデが活躍した頃、紀元前一〇〇〇年頃から登場し、八五〇年頃にはまとめられたと推定されています。彼らは、出エジプトの精神を尊重する立場の人々であったと思われます。つまり、ダビデの王国とその体制を承認しているものの王に強力な権威を集中することを快く思っておらず、ダビデの後継問題に当たってはアドニヤを推したと推定されていましす。

 このヤハウェ資料より少し時代がくだり、エリヤ、エリシャと同時代に登場し、少し違った観点からシリアによる危機を捉えていたのがエロヒーム資料の担い手です。シリアによる危機とは、前回少し触れましたが、オムリ王朝のアハブが、フェニキアの王女イゼベルとの政略結婚により、バアル宗教が持ち込まれたことで、これに対してエリヤ、エリシャ、そしてエロヒストがこれに抵抗したのです。エロヒストは、イスラエルの危機に際し、不可能を可能とする神への絶対的信頼を呼び掛けています。資料としてまとめられたのは七五〇年頃と推定されます。(続く)

 

 

 

第13回

◎北王国で活躍した預言者

  前々回は預言者エリヤの名前が登場しましたが、預言者について少し触れておきましょう。預言者としては既にサムエルが上げられますが、南北分裂後、多くの預言者が登場します。

 預言者というのは、その名称の通り、「言」を「預けられた者」を意味し、神様の言葉のスポークスマンのことです。しかし祭司とどう違うのか、預言者の権威の根拠は何なのかなどなど、詳細について分からない点がたくさんあります。ここでは、現在の聖書の中で預言者と呼ばれている人について取り上げます。そうすると、預言者と呼ばれているのは、「その時代と社会の中で、身分や階層にかかわらず、神様の言葉を示しつつ指導した人」と言えるのではないかと思います。従って、その活動の内容や主張も、一様ではありません。

 預言者エリヤの場合は、オムリ王朝に対して批判的な役割を演じました。そしてその弟子エリシャもこれを引き継いでいます。具体的にはアハブ王とその妃イゼベルによってイスラエルに広がったバアル宗教を一掃することを目指しました。エリヤ、エリシャはヤハウェ信仰に立ってバアルと戦いますが、それは身分制度を容認し、殊に奴隷を生み出すバアル宗教の教義を看過することが出来なかったからだとされています。

 

◎アモスとホセア

 エリヤより時代が降りますが、北イスラエル王国で活躍した預言者として上げられるのがアモスとホセアです。この二人はほぼ同時代の紀元前八世紀に活躍しました。しかしその預言内容は対照的です。同じ北イスラエルの現状を前に、全く異なった言葉が語られます。預言者が神様のスポークスマンであるなら、一体どちらが神様の言葉を正しく伝えているのか、という疑問が起こるかも知れません。しかし一方が正しく、他方が誤っているというのではなく、互いに補完しあっていると捉えるべきでしょう。

 

 まずアモスについて見ましょう。アモスの預言活動は、北イスラエル王国のヤロブアム二世(前七八六~七四六)の時代です。その頃は、南北両国とも平穏な繁栄の時代でした。北イスラエル王国では領土の拡張と、それにともなく経済発展を遂げ、貿易も活発になっていました。しかしこのことが北王国の人々の生活基盤を崩壊させることに繋がったのです。これがアモスの批判を招くことになりました。すなわち富の流入と物資の流通とは、元来独立した自営農であった北イスラエルの人々、特に自営の小農を直撃しました。その結果、富の偏在が生じ、富める者と貧しい者との格差が拡大、その上に、戦争の度に兵役にかり出される人々の生活は不安定になり、さらに砦の構築に課せられる労役と重税とが人々を苦しめたのです。

 このことはイスラエルの信仰生活とも繋がっていました。イスラエルの祭儀は、年ごとの祭りと毎月の新月祭、そして週毎の安息日に別けられます。この制度は、農業を営む人たちが労働を休んで神様を礼拝する祭儀制度と深く結びついていました。農耕の自営業者にとって、商取引は生活の重要な部分ではなかったのです。ところが、貿易の拡大に伴い商業が盛んになるにつれて、祭儀も経済優先へと移行し始めることになりました。こうした実態に対して「正義と公正」を訴えたのがアモスの預言です。

 

 このアモスと対極にあるのがホセアでした。ホセアは紀元前七五〇年頃から約三十年間北王国イスラエルで預言をしました。その際、他の預言者と非常に違っているのは、彼自身の特異な家庭環境から得た宗教体験をもとにしていることです。ホセアはゴメルという妻がいましたが、彼女は夫に背いて不倫をはたらき不義の子を生み、やがて奴隷の身分にまで転落しますが、ホセアは神様から促され、また自らの妻に対する強い愛情から、代価を支払って彼女を買い戻し、再び妻とします。ホセアはこの結婚を通じ、背いたイスラエルに対する神の赦しの愛を深く理解します。そして我が身を以て神様の愛ゆえの痛みを知ったのです。

  当時イスラエル王国はアッスリヤとエジプトという二大強国に挟まれて、対外政治が常に動揺し、国内では次々と王が代わって無政府状態に近い有様でした。そうした中で国民の道義も地に落ち、宗教生活は大変乱れていました。バアル礼拝が行れ、イスラエルは神の愛に背いた不倫の妻ゴメルのような状態でした。それにもかかわらず神様は真実な不変の愛を以てイスラエルを赦し、受け入れようとされたのです。裏切られた愛は、裏切られた側の赦しと、裏切った者がその赦しを受け入れことなしに回復できません。そして、裏切られた側の赦しは激しい痛みを伴います。預言者ホセアはゴメルを赦して迎え入れるということで激しい苦痛を経験しました。そのことを通して、神様がイスラエルを愛してお赦しになることが、どんなに神様御自身の痛みを伴うことであるかを実感したのです。

 

 正義を掲げるアモスと、神様の愛を告げるホセア~この両預言者が、聖書に於いて併記されていることが、聖書全体に深みを与えています。

 

 

 

 

第14回

◎アッシリアの台頭

  カナン(パレスチナ)に王国が成立する少し前に、メソポタミアに大きな動きが起こっていました。メソポタミアとは「二つの川の間」という意味で、その二つの川とはチグリス川とユーフラテス川のこと、つまり現在のイラクに当たります。チグリス川の上流にはニネベという町がありました。旧約聖書に登場するヨナが、神様から派遣された町として知られています。

 このニネベを都とした大帝国が出現します。これがアッシリアです。紀元前七四五年、ティグラテピレセル三世(聖書ではプルとなっている場合もある)が即位すると、アッシリア帝国は軍事活動を開始、七四〇年にはイスラエルの北のシリアを攻撃、二年後にはハマトを占領します。その際に北イスラエル王国のメナヘムに重い朝貢を要求します。その額は、銀一〇〇〇キカル(一キカル=約三十四㎏)であったと記されています。メナヘムはやむなく、全ての豪族に銀五〇シケルを負担させたと記されています。この聖書の記述通りであれば、六万人から徴収したことになります。(列王下十五章九~二十)

 このアッシリアの脅威に対して抵抗するため、パレスチナでは小国同士で同盟を結ぼうという動きが起こります。先ず北イスラエル王国とアラム王国が同盟を結び、南ユダ王国にも同盟を求めます。時の南ユダ王国王はアハズです。しかしアハズはこの同盟の呼びかけを拒否し、むしろアッシリアに援軍を要請、こうしてアラム・イスラエル対ユダ・アッシリアの争いが勃発します。これをシリア・エフライム戦争と言います。しかしユダ王国がアッシリアに協力を要請することは、事実上、アッシリアの属国に成り下がることを意味しました。そこでこれに真っ向から反対したのが預言者イザヤです。

 

◎預言者イザヤ

 イザヤは王に直接進言できた人ですから、ユダ王国の貴族、それもかなり王に近い立場にあった人物でした。そのイザヤがアハズ王に対し、アッシリアに援軍を要請することを思いとどまらせようと説得に当たります。しかしアハズはこれを聞き入れることなく、イザヤの訴えは拒否されます。その際にイザヤが語ったのが有名な次の預言です。

 

「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。」(イザヤ7・13~16)

 

 よくご承知の「インマヌエル預言」です。クリスマスには必ず朗読されますので、何度もお聞きになっている箇所です。しかしこの「神はわたしたちと共におられる」という預言は、裏返して言うと「神はあなた(アハズ)と共にはおられない」ということなのです。つまりアハズが採ろうとしている政策は、神様の意志に反するものであるという主張です。イザヤは安易にアッシリアに助けを求めるな、と戒めているのです。

 このイザヤの主張の背景には、ユダ王国の支配者層が堕落していたという問題がありました。つまり、支配者層は貧しい者たちの土地を奪って独占し、酒宴にふけり、預言を無視し嘲っていました。しかも北方から迫り来るアッシリアの脅威には全く無関心どころか、侵略者が襲うというならやらせて見ろとうそぶく始末です。大災害からの復興という重大問題に直面しながら、一枚岩になれない現在の日本の政治状況とよく似ているように思います。イザヤは神様への信仰を基盤にして、ユダ王国の結束を図りたかったのです。しかしイザヤの言葉は聞き入れられず、その懸念は現実のものとなります。

 

◎北イスラエル王国滅亡

  紀元前七二六年、ティグラテピレセルの跡を継いだシャルマネゼル五世は北イスラエルに対して朝貢を求めるために北王国の都サマリヤに侵入、時の北王国王ホセアは止むなくこれに応じますが、やがてエジプトの後ろ盾を得て朝貢を停止します。直ちにアッシリアは攻撃を開始、三年間の抵抗の後、ついに都は陥落、北イスラエル王国は滅亡し、サマリヤの支配階級は捉えられてアッシリアに移送され、サマリヤには新しい支配者が送り込まれ、やがて北イスラエルの民と次第に混じり合うことになります。聖書ではその混血の末裔が「サマリヤ人」とされていますが、これは現在の聖書研究では、これを執筆した人々(歴代誌家といいます)がサマリヤ人を揶揄する目的でこうした説明をしたものとされ、サマリヤ人の起源は聖所を巡る問題が原因でイスラエルから分かれた人々と見られています。

 この北王国滅亡によって、多くの民が南ユダに難民として移住したことでしょう。そしてその際に、後に発見される「原申命記」(申命記の元となる律法の一部)も持ち込まれたと推測されています。

 

 

 

第15回

◎アッシリアの平和

 紀元前七世紀の半ば、アッシリア帝国が確立し、オリエント世界が統一されたと言うことは、それまでの世界の枠組みを大きく変えることになりました。圧倒的な軍事力によって世界帝国が築かれたことは、裏返すと多くの民族国家が破壊され、伝統的文化は崩壊の危機に直面したことを意味します。こうした大きな変革が起ころうとした時に、文化的遺産を保存する必要性を感じたのであろうと思わせる出来事が起こっています。それはアッシリア王アッシュルバナパル(六六八~六二七)によるニネベの図書館建設です。そこには後の旧約聖書の創世記に取り入れられた天地創造物語やノアの洪水物語などのモデルとなった文学が収められています。そして時代を同じくしてユダ王国に於いても歴史記述を始め、文書の作成が盛んになってきます。

 ユダ王国に目を向けると、ヒゼキヤの治世が二九年、その子マナセの治世は五五年続いています。これは当時としては非常に長い治世ですが、それはこのアッシリアの平和が長く続き、アッシリアに追随する限り、ユダ王国の体制は安泰であったことを意味しています。

 しかし他方、アッシリアの繁栄の陰でメソポタミアには新たな勢力が台頭していました。こうしてオリエント世界は再び、大きな変革を迫られることになります。

 

 

◎預言者エレミヤ

  この時代に登場し、活躍したのが預言者エレミヤです。エレミヤの業績については多岐に渡りますので、詳細に触れることは別の機会に譲りたいと思います。けれどもエレミヤが他の預言者と大きく異なっているのは、非常に国際的な感覚を持っていた点です。それは彼が生きた時代に深く関わっています。そこでまずユダ王国内部の動きを象徴する事件を取り上げておきましょう。マナセの後をその子アモンが王位に就きますが、僅か二年で殺害され、八歳のヨシヤが擁立されます。(列王記下二一章)それは宮廷革命が起こったためですが、こうした事件が起こると言うことはアッシリアの内政干渉の圧力が弱まったことを示しています。またヨシヤを擁立したのは「国の民」と呼ばれるユダの自営農民の代表者たちでした。アッシリアの支配に屈服してきたマナセ、その後継のアモンではなく、国の民が自らの意志によって擁立したヨシヤが王位に就いたことは、民族としての自立を回復しようとしている人々が力を掌握したことを示す出来事でした。

 エレミヤが預言者として活動を開始したのはヨシヤ王の十三年(紀元前六二七年)です。その頃は新バビロン帝国の創始者ナボポラサル(六二六~六〇五)が即位し、その翌年にはメディア帝国の創始者キアクサレス(六二五~五八五)が即位し、やがてこの両者が連合してアッシリア帝国を打倒することになります。

 長年アッシリアの脅威にさらされてきたユダ王国、そして既に紀元前七二二年にアッシリアに滅ぼされ、北イスラエルから南ユダに逃れてきた人々は、アッシリアの滅亡により、その圧力から解放されたと喜び浮かれていました。

 しかし一人エレミヤは、この様子を見て嘆いていたのです。というのは、アッシリアと同盟関係にあったのがエジプトだったからです。すなわち、アッシリアがバビロニア・メディア連合によって滅ぼされたということは、次にエジプト対バビロニアという新たな勢力争いが始まることを意味しており、地理的にその中間に位置するのがユダ王国だったからです。こうした時代に於いて、エレミヤは「選ばれた民」としての意味を深く問い直そうとしたのでした。

 

◎ヨシヤ王の宗教改革

  列王記下二二章十節以下に、祭司ヒルキヤが書記官シャファンに渡した律法の書がヨシヤ王の前で朗読されたとあります。これが前回の最後に触れた「原申命記」です。ヨシヤ王は、これを聞くと、これに基づいて改革を行うよう指示します。これがヨシヤ王の宗教改革と言われるものです。アッシリアの干渉によって紛れ込んだ異教的要素を一掃することを目指したものですが、しかしその改革において、特に重要な点は、地方聖所を廃止し、エルサレムのみを唯一の聖所と定めたことでした。それまではパレスチナの各地に聖所が置かれており、そこで生け贄が捧げられていました。しかしこの改革で、犠牲祭儀はエルサレム以外では行えなくなります。

 このことは、動物の屠殺、つまり肉食ということが宗教生活と切り離されることになり、生活の世俗化が進むことになりますが、他方、律法を自覚的に遵守させるという精神的運動を進めることにより、ユダの民に大きな変化をもたらせることになりました。このことは後のバビロン捕囚にあって、「選民」意識を保つ上で大きな基盤となったと考えられます。

 エレミヤは、このヨシヤ王の宗教改革を支持しましたが、もともと祭司の家系であった彼は、地方聖所廃止による親族の恨みを買うことになったのでした。(続く)

 

 

 

 

第16回

◎バビロン捕囚

 紀元前七世紀はパレスチナを取り巻く情勢がめまぐるしく変化しています。前回、アッシリアの勢力にかげりが出てきたことを見ましたが、それはバビロン帝国の台頭が原因でした。そしてそのバビロンと同盟を結んだのがユダ王国です。

 ところがアッシリアはエジプトと同盟関係にありましたから、バビロンと同盟のユダはエジプトと対峙することになります。紀元前六一二年にアッシリアの都ニネベが陥落、ユダはこれに沸き立ちます。しかし、アッシリアの残党が西方のハランに追われ、これをエジプトのファラオ・ネコ二世が支援するために北上、こうしてユダとの戦闘が繰り広げられ、その戦いの中でヨシヤ王はメギド(これがハルマゲドンのことです)で戦死します。

 アッシリアの支配からの解放と民族の誇りの回復を目指したヨシヤ王、そして彼を支えた「国の民」の幻は消え去りました。ヨシヤの後、国の民はその息子ヨアハズを擁立しますが、ファラオ・ネコはその王位を剥奪、弟のエルヤキムを王位につけ、その名をヨヤキムと改めさせました。こうしてユダはエジプトの従属国とされ、ヨシヤ王が目指した大改革事業は頓挫してしまいました。

 こうした経緯により、ユダ王国は、かつては同盟関係にあったバビロニア帝国から、その矛先を向けられることになってしまうのです。ついに紀元前六〇一年、バビロニア帝国のネブカドネツァルがエルサレムに現れ、ヨヤキムに朝貢を要求、ヨヤキムはやむなくこれに応じますが、三年後にバビロニアに背きます。これに対してネブカドネツァルは本格的な攻撃を開始、ヨヤキムは戦死、その息子ヨヤキンが王位を継ぐことになりました。(紀元前五九八年)

王位継承から三ヶ月後、再びネブカドネツァルがエルサレムに現れたため、これに降伏、こうして王の母と妻たちをはじめ、有力な家来と勇士、木工、鍛冶などの技術者は捉えられ、バビロンに移送されたのです。これが第一回目の捕囚です。

 捕囚というのは、戦勝国の敗戦国に対する統治の仕方の一つで、国の指導者、有力者、学者、技術者を戦勝国に連行し、その知的財産を獲得すると共に、敗戦国に決定的なダメージを与え、国家再建を阻止するための政策です。アッシリアがイスラエル王国を滅ぼした際には、異民族、外国人を移民させ、イスラエル人と結婚させることによって民族的な意識を萎えさせました。後のアレキサンドロスは、その活動の初期段階において支配地域のヘレニズム化を推進しました。かつての日本の皇民化政策とよく似ています。歴史を振り返ると、占領政策、植民地支配はさまざまな方法が考えられています。

 このバビロン捕囚は三回行われ、その期間は六十年間に及びました。この経験は、ユダの民の信仰に多大な影響を及ぼすことになりました。

 

◎バビロン捕囚の影響

 先ず第一に、バビロンに移されてからは祭儀が行えなくなりました。先のヨシヤの宗教改革によって祭儀を行える唯一の場所はエルサレムのみとなっていました。そのため、信仰生活の中心は、信仰へ導き、また信仰を深めるための文書の編纂に重点が置かれることになります。これが聖書の成立への原動力となりました。捕囚時代に編纂された創造神話等には、バビロニアの神話を意識しながら、しかしそれを超える内容を盛り込んでいます。

 バビロンでは、バビロンの宗教の影響に晒されることになりました。エルサレムとは比較にならないほど壮麗で、大規模は宗教施設はユダの民を圧倒したことでしょう。それに感化されたものも少なくなかったと思われます。そういう中でヤハウエ信仰者としてのアイデンティティを貫くためには民の結束が重要でした。このことは律法の遵守、殊に安息日の厳守と割礼の重視に結びつきました。

 詩編一三七編「バビロンの流れのほとりに座り、シオン(エルサレムのこと)を思い、すすり泣いた。・・わたしたちを捕らわれ人にした者が歌を求め、虐げる者が自分の慰めに『シオンの歌を歌え』と命じた。異国の地にあって、どうして主の歌が歌えよう」と詠っていますが、バビロンにあって、誇りを持って生きることの困難が表れています。その中で信仰を貫こうとしたことが、その信仰を更に深化させたのでしょう。

 

 

 

第17回

◎ペルシャの台頭とユダ王国の再建

 ユダを滅ぼし、オリエント世界を制圧したバビロニア帝国でしたが、やがて支配層のおごりが弱体化を招き、新興勢力に滅ぼされることになります。その勢力とはアケメネス朝ペルシャ(イラン)でした。ペルシャのキュロス二世は紀元前五三九年、首都バビロンに無血入城します。

 このキュロスの支配は、それまでの歴史上、例を見ないものでした。キュロスは征服した広大な地域をペルシャだけでおさめることは不可能と考えました。アッシリアのように支配地域に他の支配地域の異なる民族を移住させることでもなく、バビロンのように支配国の指導者、知識層を自国に連行して軟禁するのでもなく、各国各民族の自治独立を認め、その独自性を承認したのでした。

 こうしてバビロニア帝国に捉えられたユダの民は幽閉状態から解放され、また祖国再建へ向けて取り組むことになったのでした。とはいえ、それは決して容易いことではありませんでした。約六〇年のバビロン捕囚の期間はユダの地を荒廃させ、バビロニア帝国に連行されずにユダに留まった人々だけでは再建するだけの力量はなく、荒れ果てるに任せるしかなかったことでしょう。

 祖国ユダを再建しようとするためには多額の費用がかかります。エズラ記、ネヘミヤ記には、ペルシャが多額の財政支援をおこなったことが記されていますが、これは果たして額面通り受けとめて良いのか、はなはだ疑問だと思います。何らかの援助を受けることが出来たかも知れませんが、やはりユダの再建のためには、その民が継続的に支えなければならなかったことでしょう。

 また他方、祖国再建のためには、体を動かし労働力を提供する者も必要です。現代のような建築機器などない時代です。人力による作業が求められました。こうして再建に直接的に関わる者と、再建を財政的に支援するため国外に留まって収入を得て後押しする者がなければなりません。この外国に留まり、財政的な援助をしてきたユダの民を「ディアスポラ」(離散の民)と言います。

 やがてユダの再建が進み、人口も増えるに伴い、ペルシャの行政区画に組み入れられることになりました。このときにペルシャが命名したのが「ユダヤ」(ユダの民の土地)でした。ユダヤの名称はこれを起源としています。(もっともより正確な発音はィエーフディーですが・・)

 

◎謎に包まれた時代

 わたしたちがこの辺りの歴史を聖書でよんでみると、どうも分かりにくい、という印象をうけます。実はそのとおりで、その理由としては、エズラ、ネヘミヤの活動の順番がどうやら正確ではないこと、もう一つはペルシャが記録を許可しなかったか、ユダヤ指導者層がペルシャを憚って記録を残さなかったと考えられるのです。

 バビロンから帰還した人々は、それぞれが思い思いに行動したのではありません。祖国再建の指導者がいて、全体を統括していたのです。エズラ記二章には最初に帰還した人々のリストがあり、一章ではその中心人物はシェシュバツァルとされています。しかし彼の名はその後消え、代わってゼルバベルが登場します。ところがこのゼルバベルにも同様のことが見られます。ゼカリヤ書六章一一節に、当然ゼルバベルの名が記されるべき箇所に、大祭司ヨシュアとなっており、ゼルバベルが失脚したことを伺わせます。消えた二人がその後どうしたのかということは全く記録されていません。不明なのです。

 しかしこの不可解な記述に手がかりとなるのが第二イザヤです。第二イザヤというのは、イザヤ書の四〇章から五五章を執筆した人物で、本当の名前は知られていません。現在、わたしたちが手にしている旧約聖書のイザヤ書は、最初から三九章までがかの預言者イザヤによるもので、後の部分は後代になって付け加えられたものです。しかも数人の人物によって執筆されたものが合本されたものです。

 第二イザヤは非常に重要な書物の一つですが、それは「苦難の僕」の歌と呼ばれる箇所(イザヤ五二・一三~五二・一二)があって、これがイエス様の苦難・十字架上の死を預言したものと見られたからです。そしてイエス様ご自身も、この苦難の僕の歌をひいて、ご自身の最後を予告されました。

 しかし第二イザヤ自身がイエス様の存在を知るわけはなく、また将来起こるであろうことを予言したのでもなく、彼が具に見たことを書き記したのでした。そこから推測するに、第二イザヤはこのユダヤの再建に際し、指導的立場にあったけれども、民衆の性急な民族主義的独立運動の責任を取らされた人物がいて、その人物について描写したものではないか、ということなのです。

 

 

 

 

第18回

ユダヤの建国と神殿再建

◎神殿再建

 ペルシャによって解放されたイスラエルの民は、故郷の地へ帰り、祖国の再建に取りかかりますが、先ずエルサレムの城壁の修復と神殿の再建が最も大きな目標でした。エルサレム及び神殿の再建は、単に建造物の再建ということに留まらず、民族としての目標であり、神の民としてのアイデンティティを取り戻すためにもなくてはならないことでした。

 紀元前五一五年、神殿が完成、更にエズラ、ネヘミヤの指導により、国家としてのユダヤがスタートします。この再建された神殿を「第二神殿」と言います。第一神殿はソロモンによって建立された神殿を指しますが、第二神殿とはこれとは別の神殿ではなく、バビロンによって破壊された第一神殿の跡地に再建された神殿のことです。

 

◎律法遵守

 福音書を読むと、イエス様とユダヤ教指導者、とりわけファリサイ派と律法の専門家がしばしば論争し、対立している様子が伝えられています。ファリサイ派や律法の専門家は、イエス様やその弟子たちが律法を守らないと言って非難していますが、そもそも律法を守るとはどういうことなのでしょうか?

 旧約聖書を読んでみると、福音書に見られるほどには律法遵守を指導しているようには感じられません。律法を軽んじてはいませんが、細かい規定を守ることをユダヤ人が互いに監視し合っているような場面は見られません。ではどうして、また、いつ頃からこの律法遵守にこだわるようになったのでしょうか?

 これは前回の終わりに触れた、詳しい歴史がわかっていない時代に関係があると思われます。ペルシャはバビロンに捕囚されたユダヤ人を解放し、国の独立を認めました。とはいってもユダヤに対しペルシャを宗主国とすることは求めていたのです。ユダヤはペルシャの植民地ではないにせよ、従属国には違いないのです。ところが前回に触れたのは、この従属国から抜けだそうという動きがユダヤで起こったと推測されると言うことでした。ユダヤ人にしてみると、彼らは神様に選ばれた民としてのアイデンティティを取り戻したけれども、これも程度を越えると、なぜ神様に選ばれた民が外国の支配を認めなければならないのかと言うことになり、反ペルシャの動きが起こります。ペルシャにすれば、ユダヤのような小国がペルシャに背くことを容認すれば、他の国々もこれに倣い、オリエント世界の安定が脅かされかねませんから、こうした動きは早いうちに鎮圧すべきでした。これが「苦難の僕」に繋がったと思われるのです。

 同時にユダヤ指導者は、一方で民族としてのアイデンティティをしっかり保たせたいけれども、他方でユダヤ国民の度を超した民族意識の高揚は押さえなければペルシャによって国家の存立は脅かされ、滅ぼされかねません。反ペルシャ的な恐れがないことを宗主国に示す必要があるのです。こうした背景の中で律法の遵守が指導されていったと思われます。

 

◎律法とは?

 律法(トーラー)と呼ばれるのは、今のわたしたちの旧約聖書で言えば、最初の五巻~創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。それぞれにタイトルがついていることにわたしたちは慣れていますが、もともとはそれぞれの名称はありません。聖書はもともと(今でもユダヤ教会は昔と同じですが)巻物です。トーラーは五つの巻物を指し、それをキリスト教会が便宜上、それぞれにタイトルを付けたにすぎません。従ってこの五つの巻物全体を指して「律法」と言います。ついでながら、キリスト教会の『旧約聖書』は、ユダヤ教では『律法と預言者と諸書』と呼んでいます。

 さて「律法」というタイトルから、わたしたちは六法全書のような規則集を想像してしまいますが、トーラーは「教える」とか「道」という意味で、内容は「規則」だけではありません。神話や歴史も含まれています。「規則」の部分を見てもは祭儀に関することが多く、はっきり言わせて頂くと、大方の人にとってはどうでも良いと思われることが殆どです。

 しかしこのことがユダヤ人の信仰だとして律法を遵守させることにより民族的な結束を促すことになると共に、このような信仰であれば(今風に言えば)「反社会的でない」とペルシャが見てくれれば目的が達せられることになります。つまりユダヤの指導者は、律法を厳格に守らせるよう指導することによってユダヤ人のアイデンティティを高めると共に、ペルシャには敵対しないことを示す知恵を絞り出したのです。現代のわたしたちから見ると「こんな律法を守ってどんな意味があるのか」と、つまらないことのように感じますが、当時のユダヤ人が、そしてまたユダヤ国が生き延びるためには非常に重要なことだったのです。

 

 

 

第19回

中間時代

◎所謂、聖書の中間時代

 「旧約時代」と呼ばれる期間の歴史は、前回で終了しました。おおむね旧約聖書に記されている出来事は取り上げてきました。しかし続く時代がすぐに「新約時代」に入るのではありません。新約聖書に最初に登場するのがイエス様の生涯ですが、旧約時代の終わりからイエス様の登場までは、約四〇〇年という長い時間の隔たりがあります。この期間を、旧約聖書と新約聖書の間の時代という意味で「中間時代」と表現されます。便宜上、こういう言い方が定着していますが、的確な表現ではありません。しかしひとまず、広くこの表し方が使われていますので、これから取り上げようとしているのが、一般的に言う「聖書の中間時代」を指しているのだとご理解ください。

 今のわたしたちから四〇〇年前というと江戸時代の始まり辺りになりますから、この時間の隔たりがどんなに長いか分かると思います。しかもオリエント世界には大きな動きがありました。この辺りになると、みなさんもかつて勉強された歴史上の人物が登場してきます。

 

◎アレキサンドロスの世界遠征

 これから扱うことは聖書の中に記されていることではありませんが、でもこの歴史を知らなければ聖書を読んでもどういう歴史が展開したのかわかりません。

 アレキサンドロスは、紀元前三五六年にマケドニアに生まれました。父はアレキサンドロスの教育のために家庭教師をつけますが、その一人がかのアリストテレスでした。アリストテレスという人は、ギリシャ文明(ヘレニズム)に大変誇りを持っており、世界中にヘレニズムを浸透させることがアレキサンドロスの使命であると教えます。そしてアレキサンドロスもその教えを信じて受け入れ、それを実行しようとしました。こうしてアレキサンドロスによってヘレニズムが広がっていったのです。

 でもヘレニズムとは何でしょうか。それは学問も含まれますがそれだけではありません。言うなればギリシャ風の生活の総体と言うべきものです。アレキサンドロスによって征服された地域には、ギリシャの神々の神殿が建立され、神々を喜ばせるための競技場が建てられ、劇場や浴場などが設けられる、言語は勿論ギリシャ語、衣服や生活習慣も全てがギリシャ風になるのです。

 わたしは教会の集会室に掛けられているダヴィンチ作『最後の晩餐』には根本的な間違いがあると言いましたが、それはこの絵画がギリシャ風の食事スタイルになっていないからです。つまり最後の晩餐はアナケイマイというギリシャ風の食事マナーで行われました。それは、食べ物を真ん中に置き、寝そべって食べるのです。ですから古い修道院で伝統的に伝えられてきている聖餐式(最後の晩餐に由来)はアナケイマイで行われています。そう見ると、最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちの足を洗われた場面や愛する弟子がイエス様の胸に寄りかかって裏切り者の名前を問う場面が非常にイメージしやすくなります。

 さて、アレキサンドロスの遠征の後を辿ってみましょう。前回はペルシャがオリエントを支配したところで終わりましたが、アレキサンドロスが台頭してきたと言うことは、ペルシャとの間に争いが生じたと言うことです。アレキサンドロスは、先ず小アジアに攻め込みダレイオス三世を撃退、そこから南下してシリア、フェニキアを下してエジプトに入り、ペルシャ支配の解放者として迎えられます。そしてファラオ(エジプト王)の座に着けられました。

 しかしこの頃からアレキサンドロスの心の内に、ある変化が起きます。ヘレニズムこそ人類最高の文明だという考えが揺らいできたのです。それは征服した各地でペルシャの高度な文明に触れたためでした。中央アジア、インド北部にまで遠征しした頃にはアレキサンドロスはすっかりペルシャ文明に感化されていました。

 さてこのアレキサンドロスの遠征の聖書聖書に関わることをまとめておきます。まず先述の通り、パレスチナにもヘレニズムの波が押し寄せたことです。これが後のマカベヤ戦争の要因になります。

 またパレスチナを通過するに当たって、サマリヤ人たちがアレキサンドロスに彼らの信仰を容認することを求め、これが承認されたことです。これでサマリヤ人は市民権を得ます。

 またインド付近にまで遠征したことにより、「らい病」(ハンセン病)がオリエントにもたらされたことです。ハンセン病はインド・中国起源の病気で、これがアレキサンドロスの遠征により、病原菌を貰ってしまいます。ですから、かつて聖書では「らい病」と訳された重い皮膚病の存在が知られていますが、少なくとも旧約時代には、パレスチナに「らい病」は無かったことになります。新約時代の「重い皮膚病」にハンセン病が含められているかどうかは、はっきりしません。(続く)

 

 

 

 

第20回

アレキサンドロス後

◎ディアドコイ

 アレキサンドロスはインド付近にまで至る大遠征を成し遂げますが、しかしこの偉大な指導者も一匹の蚊によってマラリヤに感染、突如、僅か三三年の生涯を終えます。アレキサンドロスは広大な支配地域を治めるために幾つかのエリアに分けてそれぞれ将軍を配置していました。アレキサンドロスの死は、その将軍たちを後継者争いに駆り立てることになりました。それらの将軍をディアドコイと言います。聖書に関係することだけを取り上げますと、ユダヤ北隣のシリアはセレウコスが、そして南のエジプトにはプトレマイオスが駐屯していました。この両勢力の狭間に置かれたユダヤは当初はプトレマイオスの支配下に置かれますが、やがて北のセレウコスが治めることになります。とはいえ、いずれの支配者も、ユダヤの宗教生活には干渉しませんでした。ユダヤは属国に甘んじることにはなりましたが、大きな反乱は起こりませんでした。

 ところがセレウコス朝のアンティオコス四世エピファネスの時に大問題が持ち上がります。ユダヤの宗教生活を禁止しようとしたのです。エルサレム神殿からケルビム像を取り除き、代わってオリュンポスの神の像を安置し、これを崇拝することを強要しました。またユダヤ人が律法に従って豚肉を食べないことを利用し、これを強引に食べさせ棄教させようとしました。昔の切支丹弾圧の踏み絵に似ています。なぜそのようなことが行われたのかについては、よく分かっていません。しかし日韓併合の際、朝鮮語の使用を禁止したり、宮城遙拝を強要した日本の歴史によく似ているように思います。

 こうした事態に対して、ユダヤ人の反応はというと、一方で激しく抵抗する者がありましたが、逆にこのアンティオコスの政策を受け入れようとしたユダヤ人たちも少なくありませんでした。アンティオコスの政策は、宗教面でもユダヤをギリシャ化しようとしたのですが、古臭く不合理に感じられるユダヤ教の教えよりもギリシャ文明に心惹かれるユダヤ人たちが少なくなかったことを示しています。

 しかし、先祖伝来の信仰を固く守ろうとする者たちもいました。彼らは当然乍らギリシャ文明に拒否的でした。そのためアンティオコスの政策は、ユダヤ人の分断に繋がります。これがその後の紛争に発展しました。

 

◎マカベヤ戦争

 紀元前一六七年、エルサレムから北西約三〇キロの距離にあるモディンという村で、アンティオコスの政策の元、アンティオコスに同調する者たちが、異教の神々に犠牲をささげようとしました。これを阻止すべくマタティアという一人の老祭司が異教の祭司を殺害、これを契機に反アンティオコスの炎が一気に燃え上がります。そしてマタティアに同調するユダヤ人が結集し、またこれを後押しする者たちも現れてきました。その支援者の中にハシダイ(敬虔な者の意)が含まれています。こうして内戦状態に発展します。これがマカベヤ戦争です。

 マカベヤというのは「金槌」のことですが、マタティアの三人の息子の一人、ユダに付けられたニックネームで、「金槌のように強い男・ユダ」という意味で「ユダ・マカバイオス」と呼ばれました。彼のことは現在のイスラエルでも賞賛されており、これに因んだ「マカビー」というビールが広く愛飲されています。あまり関係ありませんが・・。

 このマカベヤ戦争については『旧約聖書続編』のマカバイ記一、二に記されていますが、この二つの書物は上下巻ではなく、別の執筆者によって書かれた二つの記録です。

 このマカベヤ戦争の顛末はとても話としては面白いのですが、ここで紹介するにはあまりに詳細な内容に触れなければなりませんので別の機会に譲ります。もし関心のある方は、まとめたものがありますので、お申し出くださればコピーを差し上げます。

 こうして約三年にわたるマカベヤ戦争の結果、反ギリシャ勢力が勝利をおさめ、エルサレム神殿を取り戻し、神殿祭儀を復活させます。これを祝ったのがハヌカの祭で、今でも盛大に祝われます。この祭はヨハネ福音書では「神殿奉献記念祭」と訳されています。(十・二二)この神殿を取り戻したユダ・マカバイオスがエルサレムに入場される場面をヘンデルがオペラにしましたが、その際に歌われる合唱が、スポーツの勝者を表彰する際にブラス・アンサンブルで演奏されるあの有名な旋律です。

 

 

 

第21回

ハスモン王朝とローマの介入

◎ハスモン王朝

 旧約聖書続編の一マカバイ記十四章に、「民全体は、これらの決議に従ってシモンに権限を与えることをよしとした。シモンはこれに同意し、大祭司職に就くこと、また総司令官となって、祭司たちを含むユダヤ民族の統治者となり、陣頭に立つことを快く承諾した」と記されています。マタティアスから始まったマカベヤ戦争は、ユダ、ヨナタンを経て、シモンが反セレウコス勢力を束ねる時代になったとき、シモンが統治者となり、ユダヤに王国が成立したことを伝えています。これがハスモン王朝です。ハスモン家はマタティアス、ユダ、ヨナタン、シモンの家系を指しています。

 マカベヤ戦争の際、ハスモンを支持したユダヤ人勢力がありました。ハシディーム(聖書ではハシダイとなっている)と呼ばれる人々です。現在、ハシディームの名を聞かれると、十八世紀に始まるユダヤ人運動を連想されるかも知れませんが、それとは全く関わりありません。この名称は「敬虔な人々」の意で、端的に信仰熱心なユダヤ人たちでした。

 けれども王朝を巡って、ハスモン家とハシディームの間に齟齬が生じます。そもそもセレウコスの宗教干渉が起こったのは、ユダヤがシリア・セレウコス朝に植民地支配されたからだとするハスモン家に対し、ハシディームは、たとえ外国の支配の元にあっても信仰の自由が保障されるならばよしとしたのです。このハシディームからファリサイ派が誕生しますが、彼らはハスモン家が大祭司職を担うことについて異議を唱えたことにより、両者の亀裂は決定的になります。

 そもそもハスモン王朝が成立した背景には、セレウコス朝の弱体化があったのですが、ファリサイ派との対立により大きな支持を失ったハスモン家はやがて衰退の一途を辿ることになります。

 

◎ローマの干渉

 さてハスモン王朝内に王位を巡る対立が生じます。これに干渉してきたのがローマの将軍ポンペイウスです。それに先だってポンペイウスはセレウコス朝を倒し、シリアをローマの属州としていました。紀元前六三年、ポンペイウスはエルサレムを占領、ハスモン王朝最後の王アリストブロスを降伏させ、ユダヤもローマの支配下に入れられたのです。以来、イエス様の時代もローマの植民地となりました。

 紀元前四九年、ポンペイウスとユリウス・カエサルの対立が表面化、ポンペイウスが倒されます。この対立を巧みに利用したのがハスモン王朝で重臣を務めたエドム人のアンティパルという人物です。ポンペイウスとの対立の中で苦戦を強いられたカエサルに援軍を送り、大いに評価され、後にカエサルが勝利を収めた際、アンティパルはローマ市民権を与えられ、さらにユダヤ総督に任じられます。

 紀元前四四年、カエサルが暗殺されると、その暗殺に荷担したカシウスがシリア総督に就きます。カシウスはユダヤに重税を課しますが、歓心を買うためにアンティパルは徴税に熱心になります。しかしこのことはユダヤ民衆の激しい抵抗を喚起し、彼は毒殺されてしまいます。アンティパルにはファサエルとヘロデという二人の息子がいましたが、アンティパルの死後、二人は全ユダヤの知事に任ぜられます。

 ところで東にローマと対峙する大国がありました。パルティアです。これがハスモン王朝の末裔というアンティゴノスと手を結びエルサレムを攻撃、占領してしまいます。またこれを機にファサエルとヘロデに対する民衆の反乱が勃発、ファサエルは捉えられ獄死します。

 このときうまく逃亡したのがヘロデでした。彼はエルサレムから南下し、死海をわたり、現在世界遺産として知られるペトラを経由、さらにエジプトからローマへと亡命します。そこでオクタヴィアヌス(アウグストゥス)から忠誠を認められてユダヤの王に任命されてエルサレムに戻ります。こうして紀元前三七年、ヘロデはアンティゴノスを捉えて処刑し、ユダヤの王として君臨することになったのです。

 このように、ユダヤはユダヤ人でないヘロデが王位に就きますが、このことはヘロデには大きな負担となりました。絶えずヘロデの地位を脅かすものの影を恐れたのです。ヘロデは息子さえも気を許せず、疑心暗鬼に陥り、六人の息子を処刑しています。まして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と訊ねた東方の占星術の学者の言葉には怯えたであろうことは容易に想像できます。そして幼児を殺害させたという話も起こりそうなことです。もっとも幼児虐殺を裏付ける証拠はありませんが・・・。

 

 

 

 

第22回

ユダヤのセクト

 マカベヤ戦争、そして続くハスモン王朝時代にユダヤに幾つかの目立った動きがあり、これらは後々に影響を及ぼすことになります。今回はこれらを整理して紹介したいと思います。

 

◎ファリサイ派

 新約聖書には頻繁に登場しながら、旧約聖書にはまだ存在しない幾つかの諸派がありますが、その代表的なグループがファリサイ派です。しばしばイエス様に論争を仕掛けたり、イエス様に非難されていることで知られています。

 ファリサイ派は、マカベヤ戦争の際、マカベヤのユダの側を支援したハシダイ(ハッシディーム)から派生した一派です。ファリサイという名称は「分離」を意味しますが、それにはユダヤ人の中でも特に律法の遵守に熱心であったことから、律法に抵触する者から「分離」した存在であったという説と、後で扱うエッセネ派と「分離」したグループに由来するという説もあります。

 律法というのは、旧約聖書中の最初の五巻の書物を指しますが、その中には六百以上の戒律が記されており、これを日常生活に貫徹させる目的を持って民衆を熱心に指導・教育していました。その律法を更に細分化した戒律(福音書では「言い伝え」と訳されている)をも尊重しました。繋がると考えたからでした。

 ただ少々紛らわしいことを書きますが、最近の聖書考古学の成果から言えることは、福音書に記されているファリサイ人は実像とはかなり異なっているようです。

 

◎サドカイ派

 次に福音書に登場するのがサドカイ派です。サドカイの名は、祭司サドクに由来し、貴族階級に属し、支配者近くにあった人々です。律法に対しては保守的な立場に立ち、外国勢力に対しては妥協的で、体制擁護派でした。福音書に登場する「民の長老たち」「祭司長たち」はこの派閥に属していました。

 

 イエス様が活躍された頃、ユダヤはローマ帝国の植民地であり、ヘロデという異国人が王位にありましたが、ユダヤ人の生活に直接的に多大な影響力を持ったのはユダヤ教でした。そこでユダヤ独自の問題について取り扱う部署としてサンヘドリン(最高法院)が設けられていました。その主たる構成員が、ファリサイ派、サドカイ派でした。

 

◎熱心党(ゼーロータイ)

 このサンヘドリンがユダヤ社会の体制を支えていましたが、これに対峙したのが熱心等でした。熱心党はファリサイ派やサドカイ派を批判し、外国の支配を容認し、結局は律法を踏みにじる者たちであり、神様の支配を具現化するのは自分たちであるとした過激なグループで、しばしばテロ活動を行いました。彼らは外国人ばかりでなく、外国に妥協的・迎合的なユダヤ人をもテロの対象としていました。

 

◎エッセネ派

  このグループは聖書には登場しません。彼らはエルサレム神殿を中心とした体制に批判的で、都から離れ、荒野に共同体を形成し、そこで厳格な宗規に従う禁欲的な生活を送っていました。いわゆる「死海文書」はこのグループで書かれたものです。聖書学者は洗礼者ヨハネやイエス様もこのグループと関わりがあったと見ています。

 

◎黙示思想

 これらの諸派の他に、黙示思想の影響を受けた人々があります。これはグループを形成していたわけではなく、ユダヤに及んだ思想上の影響とお考えください。

 黙示思想の影響を受けた文書としては、旧約聖書のダニエル書、新約聖書ではヨハネ黙示録がその代表格ですが、旧約聖書の預言者の中にも既にその影響の跡が見られます。

 黙示思想というのは、ペルシャのゾロアスター教に起源を持っています。それはいわゆる善悪二元論という世界観で、この世界は善の神と悪の神との戦いの場であるとする見方です。この世界に不幸や悪が蔓延るのは悪の神によるのだと説明されます。しかし悪の神は、最終的には善の神によって滅ぼされ、善なる神が世界を支配すると教えています。

 これは世界の不幸や悪の起源を「人間の罪」としてきた古代イスラエルの信仰とは全く異質なものですが、これがユダヤ・キリスト教世界に紛れ込んできたのです。

 この思想は「なぜこの世界に悪が蔓延るのか」「正しいものが害を受けるのか」という疑問には、分かり易い答えを出してくれます。従って迫害下のクリスチャンには支えになったことでしょう。しかし「人間の罪」を曖昧にするという問題点は残ります。

 

 

 

 

第23回

◎ナザレのイエスの登場

 いよいよイエス様の活動について触れることになりますが、このことはよくご承知のことと思いますので、簡潔に、また現在の聖書研究の成果を踏まえてまとめてみたいと思います。

 ただ頭に置いて頂きたいのは、ここで取り扱うことは、あくまで歴史上の人物としての「ナザレのイエス」の実像であって、「神の独り子」とか「メシア」ではありません。それは勿論大切なことですが、ここではあくまで二千年前のユダヤの国に生きた一人の男の実像に迫りたいと言うことです。こういう説明もなかなか分かりにくいかも知れませんが、今はこんなことが書かれていたな、ということを頭の片隅に置いていたければ結構です。

 さて教会では毎年クリスマスを盛大に祝いますが、実のところイエス様の出生について詳しいことは分かっていません。また幼児期、少年、青年時代のことも不明です。

イエス様が活動を開始されたのは、ルカ福音書によれば「およそ三十歳」(三・二三)とされており、その活動期間は一~三年と推定されています。それは福音書に基づく推測です。マタイ、マルコ、ルカの福音書(共観福音書と言う)ではイエス様が過越の祭を祝うためにエルサレムに上られた時に捕らえられて十字架刑に処せられたとしていますが、ヨハネ福音書では過越祭に三回上京されたことになっています。過ぎ越の祭は年一度の祭りですから、それを根拠にイエス様の活動期間を一~三年と見ているのです。

 

◎ガリラヤ地方

 次にイエス様の活動の舞台ですが、ほとんどガリラヤ地方に限られています。ユダヤの国は日本の九州の北から南までの長さにほぼ一致しますが、北からガリラヤ地方、サマリヤ地方、ユダ地方の三つに分かれます。首都のエルサレムは南のユダ地方に属し、そこからは遠く隔てたガリラヤ湖周辺で活動されました。

 ガリラヤという地名が最初に見られるのは、ヨシュア記で、カナンの地に六つの逃れの町が指定されたという箇所です。しかもガリラヤはその中で筆頭に上げられています。「逃れの町」とは、過失で殺人を犯してしまい、復讐しようとする者に狙われた人や、税の滞納や多額の負債のために取り立てに追われる者、あるいは政治的亡命者などを保護し、彼らが安心して生きることが出来る場所として設けられた町のことです。しかし現実の逃れの町は、逮捕されるべき人や排除された人が集められ、押し込められた所で、周辺からは差別視されるようになっていました。

 次いでガリラヤの地名が現れるのは、列王記のソロモン王の時代のことです。ソロモン王はイスラエルの全盛期に君臨した王でした。ソロモンは、父ダビデ王が国家統一を果たしたイスラエルを引き継ぎ、周囲の国々から金銀財宝や建築資材をかき集めて壮麗な大神殿を建てました。彼は高級建築資材であるレバノン杉を調達するため、ティルスの王ヒラムに見返りとしてガリラヤ地方の二十の町を贈ります。自らの権力を誇示するために大神殿を建立し、見返りにガリラヤの町々は切り捨てられたのです。今の日本の感覚で言うと、国体護持のため、また日米安保維持のために捨て石にされた沖縄のようです。ガリラヤとはそういう地域でした。

 

◎活動拠点カファルナウム

  イエス様は、通常、出身地名を付けて「ナザレのイエス」と表されます。でも福音書によれば、ナザレでは受け入れられず、活動拠点をガリラヤ湖畔の街・カファルナウムに置かれました。現在、カファルナウムには当時の遺跡が保存されており、ペテロの家や会堂(シナゴク)跡が見られます。五〇〇〇人に食べ物を与えた奇跡を行った場所、ペテロに「この磐(ペテロ)の上に教会を建てる」と仰った所、山上の説教が行われた丘など、福音書に記されている出来事の多くがこのカファルナウムとその周辺で行われています。

 このカファルナウムから少し北にコラジンという村があります。現在も発掘中ですが、まだこの村のほとんどが土中に埋もれていると推測されています。玄武岩で造られた建物跡が幾つも見られますが、その一つ、会堂跡にはとても興味深いレリーフを見ることが出来ます。それは会堂の柱に、人面が彫られていることです。イスラムのモスクもそうですが、ユダヤ教の会堂の装飾に人物像は用いません。これはヘレニズムの影響によるもので、他宗教の影響を警戒してユダヤ教では禁じられていました。しかしこのレリーフは、ガリラヤが異教の地と隣り合わせで、異教の影響を強く受けていたことを示しています。これが、他宗教の影響を受けることなくユダヤ教の正統的信仰を継承していたエルサレムとは大きく異なる点です。

 

 

 

第24回

イエスという存在

 新約聖書にある書簡(手紙)、特にパウロの手紙を読んでいると、大変似たような言葉が出てきます。「イエス・キリスト」と「キリスト・イエス」~単に順番が変わっているだけで、同じことを言っているのだろう~多くの方はそう思われるでしょう。何を指しているか、と言う点では同じなのです。

 でも聖書の研究者というのは、こういう何でもないことに関心を示し、これはどういう理由だろうと探るものなのです。現在、わたしたちが教会の中で使うとしたら、殆どの方は「イエス・キリスト」と口にされることだろうと思います。「キリスト・イエス」を使う人は先ずおられないのではないでしょうか。

 ではこれがどう違うのか?この二つの表記の仕方を手紙の中から拾い出して比べてみると、あることが判ってきました。それは「キリスト・イエス」の表記の仕方の方が古いと言うことです。時代が新しくなるにつれて、「イエス・キリスト」に変化し、固有名詞化して定着していったそうです。

 そこから何が判るのか?チョット復習して下さい。そもそもキリストって何でしょう?それは「油を注がれた者」で、ヘブライ語ではメシアと言います。ではどういう人がメシアなのでしょう。時代によって違いがあるのですが、元々は王様や大祭司などの国や民族的なリーダーのことでした。

 

サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。」(サムエル記上9・15~16)

 

  これはイスラエルの初代王サウルに油を注ぐよう、神様が預言者サムエルに語りかけた場面です。このとき、イスラエルは海の民ペリシテと戦っていました。全イスラエルの力を結集して対抗するために、強力な権威を持った王を立てる必要があったのです。そこでサウルが選ばれたことを示しています。こうした国や民族の先頭に立つリーダーには常に危険が伴います。油は古代の殆ど唯一と言って良い外科的治療薬で、油には傷を癒す力があると信じられました。そこから、リーダーに危険が及ばないこと、またたとえ怪我をしても致命的なものとならないようにと願って油を注いだのだ、ということは前に説明した通りです。

 しかし時代がずっと降って、イエス様の頃~ローマの支配下に入った頃には「油注がれた者」の意味合いは随分異なってきました。すなわち、外国の支配から国を解放し、独立へ導くリーダーを指すようになっていました。こういう場面が思い出されます。

 

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

(マルコ8・27~29)

 

  フィリポ・カイサリアはローマ皇帝を神として祀った神殿のあったところです。そこでイエス様は弟子達にご自分のことを誰かと訊ね、これにペテロが応えて「あなたはメシアです」と言います。これは極めて緊張した場面です。ローマ帝国の権力を誇示している皇帝の神殿がある場所で、ペテロは「あなたはメシアだ」と言っているのです。言い換えれば、「あなたはこの皇帝の力を退けて、ユダヤをローマの支配から解放し、独立に導く方です」と言っているのですから、ローマの官憲にこれを聞きつけられたら、直ちに取り調べられるに違いないのです。つまりキリストとはそういう存在を意味するのです。

 しかしイエス様はそう言う意味でのキリストとは結びつきません。ですからパウロが手紙に書いたのは、自分がキリストと言っているのはナザレのイエスのことなのだ、と言いたいのです。しかもこの時にはすでにイエス様は十字架で死んでおられます。つまりパウロは当時のユダヤで一般的に用いられていたキリストという称号を、イエス様に対して用いることによって、その意味合いを大きく変更したのです。当時のユダヤ人の誰もがイエス様をキリストと見なかったのです。でもパウロはイエス様の十字架に神様のご計画を見いだしたのです。

 こうしてイエス様がキリストだという見方が広く教会で受け入れられ、定着するに及んで「イエス・キリスト」という固有名詞化した表現が定着することになります。

 なぜ今回こういうことを取り上げたかということですが、こうしたプロセスの中で、実はイエス様の歴史的実像がぼやけてしまうのです。ついでながらキリストを「救世主」と訳すのは意訳で正確ではありません。救い主は「ソーテール」と言います。

 

 

 

 

第25回

イエス様の教え

 イエス様の説教や譬話、奇跡や論争などは福音書に記されている通りですが、そのすべては「神の国」という言葉に集約されます。イエス様の教えや働きは、日曜日毎に礼拝の説教で話されますので、この紙面で詳しく扱いませんが、その教えの中でもとりわけ特徴的で大切だと思われる二点だけ取り上げようと思います。

 

 その第一は、イエス様は隔ての壁を取り払おうとされたことです。このことはルカ福音書十章の「善きサマリヤ人の譬」に顕れています。この譬は、「永遠の命」を得るために何をしなければならないかという質問に対し、質問者自身の理解を問いただして、神様を愛し、隣人を愛しなさいという旧約聖書の律法の言葉を引き出し、これ続いて「隣人とは誰か」という質問に応えてこの譬を話されました。

 現在、わたしたちが教会で「隣人」という言葉を使う時、この漢字のイメージとは違って「不特定多数」のような漠然とした人を指しているように思われます。地球の裏側にいる貧しい人、病人や被災者を援助する際にも「隣人」という言葉が使われている例が沢山あります。

 しかし「隣人」という言葉は、イエス様の時代に於いては「同胞」を指し、ユダヤ人以外の民族を意味してはいません。ですから、善きサマリヤ人の譬ではサマリヤ人がユダヤ人を助けたわけですが、ユダヤ人から見るとサマリヤ人は「隣人」ではなかったのです。しかしこの譬ではサマリヤ人がユダヤ人の「隣人」になったのであり、この譬を通してイエス様は、隣人という言葉が意味する領域を拡大したのであり、民族という壁を取り除かれたのです。

 またルカ福音書十五章の三つの譬~迷える羊、失った銀貨、そして放蕩息子の譬は、イエス様が徴税人や罪人と会食しているのを目撃したファリサイ人が批判したことに対して語られたものであり、「同胞」の間で「穢れた者」とそうでない者の間に一線を画して差別し、隔てを設けたことに対して、その隔てを超えることを教えておられます。神様からご覧になると、多少ましな人間が劣る者かということは些細な違いであり、いずれも神様の前には自ら誇ることの出来ない者であると仰ったのです。ですから、例えば放蕩息子の話では、一見したところ心を改めるべきは遊蕩に耽った弟のように思われますが、自らを悔いて帰宅した弟を受け入れることの出来ない真面目な兄が父に諭されているのです。こうして人と人の間にある隔ての壁を除いたところに「神の国」は成立すると教えておられるのです。

 

 イエス様の特徴的な教えの第二はマタイ福音書五章以下の「山上の説教」に見られます。それは「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えです。しかしこれは無抵抗と言うよりも、同じ山上の説教にある「平和を実現する人」であれ、ということでしょう。このイエス様の教えについて、その是非や、だれがこれを守ることが出来るのかという議論が交わされることがありますが、少なくとも原始教会のクリスチャンはこれを文字通り守っていたことを憶えておきたいと思います。

 紀元七十年のユダヤ戦争に於けるクリスチャンの対応が最初の例です。ファリサイ派や祭司たちユダヤ教指導者達は、エルサレムに立てこもってローマ軍と戦うことを呼び掛け激しい戦闘を繰り広げました。エルサレムは神様のおられる都と信じられましたから、これを異教徒のローマ人の手に渡すことは出来なかったのです。

 この時にクリスチャンはエルサレムを脱出し、ガリラヤ地方のペラという所へ逃亡してしまいます。もっとも現在の所、その事実の証拠は見つかっておらず、そういう噂があったということかもしれませんが、エルサレムに留まらなかったことは事実です。それはイエス様がエルサレムを重要視しておられなかったこともその理由だと思われますが、やはり戦うことを避けようとしたことが最大の理由でしょう。

 また初代教会の教父(教会の指導者)の残している文書には、志願する者には誰でも洗礼を授けるよう指導していますが、唯一、兵士には洗礼を授けないようにと指示しています。そして少し時代が降ると、兵士にも洗礼を授けても良いとされているものの、その際の条件として、戦場に赴いても敵を殺さないことを約束させています。

 けれどもやがて教会がこの教えから遠ざかる事態となります。三一三年、コンスタンティヌス大帝によるミラノの勅令、更にキリスト教が国教化されるに至ってキリスト教そのものが大きく変わらざるを得なくなったのです。

 

 

 

第26回

伝えられるキリスト

 わたしたちのキリスト教信仰はイエス様の活動が元になっていますが、その信仰の核となっているのは、実はイエス様ご自身の身に起こったことで、イエス様が自ら行ったこと・教えられたことではありません。ご承知の通り、イエス様は十字架上で処刑されましたが、三日の後に復活され、復活されたイエス様と弟子たちの出会いからキリスト教信仰は始まったのです。

 イエス様の復活という出来事は、興味の尽きない話ではありますが、合理的な説明は不可能です。今までに多くの人が、幾度も説明を試みましたが、どうしても説明しきれないところがあります。ここでも話が飛躍してしまいますが、イエス様が復活されたという事実を受け入れて進めます。ただ復活と言うことが何を表しているかと言うことだけは確認しておきましょう。

 「復活」という言葉と殆ど区別無く使われる言葉に「よみがえり」があります。しかし厳密に言うと、イエス様の復活というのはよみがえりではないのです。よみがえりというのは陰府(黄泉と書くこともある)に行って帰ってくることです。陰府は死者の世界のことですから、一旦死者の世界に行った人が、この世に戻ることをよみがえりというのです。臨死体験とか、蘇生と言うことならばこの言葉が当てはまるでしょう。

 しかし復活と言うことはこれとは異なっています。というのは例えば復活されたイエス様は、鍵をかけた部屋に突然現れたり、見えなくなったり、一緒に歩いていた弟子たちがイエス様であることが分からなかったけれども目が開かれて初めて分かったという話が伝えられています。これらのことはイエス様が新しい存在になったことを示しています。つまり復活と言うことには新たに造りかえられるという意味合いが込められているのです。

 また同時に、この復活されたイエス様に出会った者も新しくされます。ユダヤ人たちを恐れていた弟子たちが、突然変貌し、イエス様をキリストと公言するようになります。つまり復活されたイエス様に出会った者も新たにされた体験を伴っているのです。

 使徒信経やニケヤ信経ではイエス様の復活を、「罪の贖い」と捉えていますし、キリスト教の信仰に於いてそのように伝えられています。しかしイエス様の復活について、「贖い」と捉えるのは、復活が起こってからしばらく経ってからのことです。最初期は「復活した」という事実だけが伝えられたのです。使徒言行録のペテロの説教に「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という箇所がありますが、人間によって拒否されたイエス様が、神様によって肯定されたことが復活という出来事の起きた理由であるとしています。こうしてイエス様ご自身は宣べ伝えられる方とされたのです。

 しかしこのことは、イエス様を十字架に付けることに熱心だったユダヤ人には苦々しく聞こえたに違いありません。弟子たちの活動がユダヤ人によって妨害されたことは使徒言行録の伝えている通りです。しかしこれがユダヤ教からキリスト教が分離していった理由ではありません。

 

 ところでイエス様の弟子たちはイエス様の昇天の後もエルサレムに留まり、そこで聖霊降臨を体験します。そしてエルサレムに共同体を作り、イエス様のことをエルサレムのユダヤ人たちに語り聞かせました。

 しかしユダヤ人と言っても、大きく分けて二つに大別できます。一つは当時のユダヤ人の間で使われたアラム語を母国語とするユダヤ人、もう一つはギリシャ語を母国語とするユダヤ人です。ギリシャ語を母国語とするユダヤ人は、主としてディアスポラと呼ばれる人々で、バビロン捕囚の際に連行されてバビロンの居住し、ペルシャのキュロス王による解放の後、世界各地に移り住み、地中海沿岸、オリエント世界の共通語となっていたギリシャ語を日常語としていました。ローマ帝国時代には、帝国内のユダヤ人は約四百五十万人、そのうちディアスポラは四百万人近くいたと推定されています。この両者は、信仰の面で大きな違いがあります。アラム語を母国語とするユダヤ人は、ユダヤ教の伝統に堅く立っています。これに対しギリシャ語を母国語とするユダヤ人はユダヤ教的な見方・考え方を持ちません。

 イエス様の弟子たちは、おそらく外国にまでイエス様のことを宣べ伝えようという意思はなかったと思われますが、しかし三年も経たない内に、外国にまで広がっていくことになりました。それを伝えたのがディアスポラのユダヤ人で、ギリシャ語を母国語とする人々でした。これが後の「エルサレム会議」(使徒言行録十五章)前夜の状況です。

 

 

 

第27回 

エルサレム会議

 教会の歴史を振り返ると、有名な、そして重要な教会会議(公会議)があります。ニケヤ信経を制定したニケヤ公会議(三二五年)、また近いところではバチカン公会議も広く知られているところで、現代のキリスト教会に教派を問わず影響を及ぼしました。

 こうしたさまざまな会議が教会に於いては開かれますが、歴史上、教会が最初に開いた教会会議は使徒言行録に記されている『エルサレム会議』(使徒会議)です。

 なぜこの会議が開かれることになったのでしょうか。それについて、パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の中で触れています。

 

「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(2・11~14)

 

 アンティオキアは現在内戦状態になっているシリアにある街です。そこには早い時期に教会が設立されました。世界で最初に「クリスチャン」という呼び方が使われたのもこのアンティオキアでした。そしてその教会の会衆はユダヤ人でなく異邦人で占められていました。パウロはこの教会に滞在し指導していました。

 その教会にイエス様の弟子のペテロ(ケファ)がやって来ます。そして異邦人会衆と親しく交わったのですが、そこにエルサレム教会からヤコブ(おそらく主の兄弟のヤコブ)の使いが送られて来ます。するとペテロは異邦人会衆を避けて遠ざけようとしたのです。そのことをパウロは責めているのですが、ペテロが尻込みし始めた理由は、異邦人クリスチャンが割礼を受けておらず、エルサレム教会の信徒が無割礼の者と交わるペテロを非難したためでした。現代のわたしたちから見ると、どうでも良いことのように見えることですが、ユダヤ人にとって割礼の有無は非常に大きな問題でした。というのは、今でもそうですが、ユダヤ人男子は生まれて間もなく、必ず割礼を受けなければならないことになっているからです。それは神様との契約の儀式なのです。

 つまり原始教会には、一方にエルサレム教会に代表される、ユダヤ教の伝統をしっかり受け継いだ信徒がいます。使徒言行録十五章によれば、殊にファリサイ派からの改宗者がユダヤ教の伝統・律法の遵守を標榜していたのです。このころはまだキリスト教はユダヤ教から分離・独立していません。最初期のキリスト教はユダヤ教の一つの分派と見られていたのです。

 しかし他方、アンティオキア教会に代表されるように、ユダヤ教の伝統とは全く無縁の異邦人クリスチャンがいました。彼らからすれば、ユダヤ教の伝統をなぜ受け継がねばならないのかという理由が分かりません。そこで割礼の問題を巡って、この二派が論争を繰り広げることになりました。

 この論争を収めるために招集されたのがエルサレム会議です。そして議論の末、ペテロが立ってこう話します。

 

「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」 (使徒言行録15・7~11)

 

 この会議によって、クリスチャンは律法によってではなく、神様の恵みによって救われることがはっきりと示され、イエス様の福音がユダヤ教の枠組みを越えて、世界にもたらされ、他民族・他国民に受け入れられることになったのです。

 

 

 

第28回

 聖書の歴史の最終回として、初期の教会が直面した迫害と異端について触れておきたいと思います。

 キリスト教会はその出発点から迫害に見舞われています。その理由は幾つか考えられますが、先ず第一に、そもそもイエス様の十字架自体が迫害の結果でした。イエス様を処刑した人々は、おそらく十字架によってイエス様の信奉者達も徐々に姿を消すだろうと予想していたのではないかと思われます。

 ところが事態は意外な展開を見せ始めます。死んで墓に葬られたイエス様の遺体が無くなり、弟子達がイエス様は復活したと言い始めたからです。しかもそのイエス様をイスラエルが待ち望んだメシアであると宣言したのです。

 イエス様を十字架に至らしめたのは、当時のユダヤの指導者、つまり祭司たち、律法学者、街の長老など、サンヘドリン(最高法院)のメンバーでした。イエス様の弟子達が、イエス様こそがメシアであり、十字架上で処刑されたけれども神様の力によって復活させられた、と言い始めたのですから、これは聞き捨てなりません。弟子たちの主張が正当だとすれば、イエス様を十字架に至らしめた人々は全く神様の意志を汲み取れず、神様が遣わしたメシアを亡き者にしようとした不信仰な輩と言うことになるからです。彼らの宗教的な権威も地に落ちることになります。使徒言行録を読むと、その辺りの様子がよく分かります。

 迫害の第二の理由は、キリスト教徒にユダヤの伝統を知らない者が増えてきたことです。キリスト教は、最初期にはユダヤ教の一分派と見られていました。おそらく弟子達もそのように理解していたことでしょう。

 ところがユダヤ以外の地で生まれ育ったユダヤ人はユダヤ教の教義や習慣に通じていない者が多く、そいういう人達の中からイエス様に従おうとする人々が現れ始めます。そして彼らにはユダヤ人が最も大切だとしてきた律法を重視する理由が理解できないのです。特に前回見たように、割礼を巡っては、これに従わない者が多く現れます。そこでユダヤの宗教的伝統を重んじる人々が、これを軽視する者を迫害し始めます。回心前のサウロ(パウロ)が教会を迫害したというのはこれに当たります。

 しかし興味深いことに、この迫害はキリスト教に一つの成果をもたらすことになります。それは迫害する者は、キリスト教勢力を押さえ込むことを目指したのですが、迫害によってクリスチャンが逃亡し、拡散したことによって、逆にキリスト教が世界に広がることになったからです。

 なお、キリスト教会が見舞われた迫害と言えばローマ帝国によるそれを思い出される方も多いかと思いますが、新約聖書に関係しているのは主にネロ(54~68年)、ドミティアヌス(81~96年)の時代のことです。

 原始教会が直面したもう一つの重大事が異端です。とは言っても原始教会、聖書に記述されている範囲では、まだ正統的なキリスト教の教義は明確にされていません。原始教会には、イエスという存在をどう捉えるのか、復活とはどういうことなのか、贖いとは等々、千差万別の捉え方、見方が混在していました。

 そんな中でキリスト教信仰の捉え方、見方の違いが議論になり、更にその違いは倫理上の違いとも繋がり、原始教会内に混乱が生じます。そこで正統的なキリスト教信仰とはいかなるものかを示す必要が生じました。そこで長きに渡る論争・議論が展開されることになります。

 具体的には、例えばこんなことが上げられます。新約聖書のヨハネの手紙二章一八節以下に次のような言葉があります。

 

「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです 。」

 

 ここでいう「去っていった人たち」は、もともと同じ教会に属していたと考えられます。ところが一緒に歩めなくなった~なぜなら信仰についての理解が全く異なっていたからだと言うことです。この去っていった人達は「グノーシス」と呼ばれました。彼らは非常に大きな影響力を及ぼしました。

 しかしこの異端の登場もキリスト教会に一つの成果をもたらすことになります。つまりそれらを異端とするなら、逆に正統的な信仰とはいかなるものかという議論を引き起こしたからです。そしてその議論の中から使徒信経、ニケヤ信経、アタナシウス信経が生まれ、キリスト教神学の基礎が築かれたのです。これらは新約聖書にある文書が書かれた時代からずっと後のことになりますが、こうしてキリスト教信仰は現代にまで継承されています。  (終)